妖しさと刺激と。「良い子」なだけでは物足りない?

2017.06.21

最近見た『仮面ライダーアマゾンズ Season2』や『血と骨』、『ヒミズ』や『凶悪』などの映像作品。または過去の読書体験も合わせて、最近なんとなく考えていることも踏まえて書き散らしてみる。

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たま〜に、残虐な物語とか悪意に触れる物語が欲しくなる

情操教育という意味では、著名な絵本のように道徳心を育むようなキレイな物語が必要なんだろうけど、口当たりが良くて身体にも心にも悪い影響を及ぼさない物語では、時々物足りないと思ってしまう。思いっきり低俗なやつとか、人間の闇や原罪めいたものに触れるような物語を浴びたくなる。

何故なんだろう、と考えかけたけれどもそんなに複雑な話ではなく、ただ単に「精神的にも破壊が必要」とそれだけの話なんだろう。人間の身体だって、「破壊」がなければ5本の指には分かれなかったし、自死が働かないからがん細胞は厄介な訳で。「創る」以上に実は、「壊す」ことも重要なんじゃないか、という見方も最近はあるという。

道徳的に安全安心な材料で塊を作って、毒っ気のある刺激的な物語でそれを削りこんでいく。柔らかい心を持っていればいるほど、小さな傷だって深く刻み込まれて独特な形に変わっていく。もし、一切傷つくことのない心であれば、ずっと丸いままなのだろうか。そうすると、心に何も欠けたところのない完璧な人間になるのだろうけど、そんな人間とか変わって面白いのかどうかは、自分には判断できない。まあ、多分つまんないんだろうけど。

行政や役所が絡むと、「良い子」なコンテンツが選ばれる

学校が与えるものもほとんどそうだろうけど、大抵は安全なコンテンツしか与えられない。毒に等しいコンテンツで心が変質して奇抜な発想を持たれるぐらいなら、みんな同じ、個性に乏しい精神を持っていてほしいから? 世界は常に与えられるだけ、安心安全に加工されて調整された、閉じた世界なんだ、と。

行政や役所が推薦するコンテンツも、恐らくはそういうものが中心だろう。あまりにも俗っぽいものや、逆に特定の宗教の匂いがするものは、表向きの中立を装う人たちは忌避するだろう。でも、そうすると加工度の高い毒にも薬にもならないコンテンツしか残らないことになる。

安全は安全だろう。心にも身体にも、なんの悪影響も与えないサプリメントのようなコンテンツ。でも、味気ないし、個々の違いなんて加工が強すぎて残らない。僅かなラベルの違い、僅かなストーリーラインの違い、表面的な違いしか残らないことになる。そんなものを一所懸命取り込んで、何が楽しい? 多分、何も楽しくはない。そんな加工度の高い安全安心なコンテンツで、人を夢中にできるのかと言われれば、多分無理だろうなぁ。

「良いコンテンツ」は、多分タダでは受け取れない

金銭的な意味だけじゃない。肉体的な健康もあれば、精神的な健康もあるだろうし、単純に時間という要素もある。毒にもなりうるものを、なんらかの代償を払って自分で選ぶから、その体験には価値が出る。

安全安心、毒にも薬にもならないコンテンツを提供してしまえば、代償を払う機会すら奪うことになる。それは、多分「子供だまし」というのだろう。実際、そんなコンテンツでは子供すら騙せないのだけれども。

騙されてくれるのは、中身のない大人だけ。閉じた世界でいいんだと、教えられた世界から出てこない大人からお金を巻き上げるだけなら、そういうコンテンツでも十分なんだろう。いくらでも量産できるし、安定して60点や75点を目指していける。お金さえかければ売上の予測も容易に立つところが、また引き立てられる要因か。

でも、本当に見る目のある人や本当に価値の分かっている人、感度の高い子供はそんなコンテンツには魅かれない。一度目は騙されても、二度目、三度目は付き合ってくれない。となると、やるべきことは一つしかない。

聖も俗もある、刺激的で妖しいものを職人芸で提供していく

毒にも薬にもならないコンテンツと対極のものを作るということは、「毒」になりうる刺激的なコンテンツを作るということになる。ここで難しいのは、ただただ刺激的なコンテンツを作ればいいということではない。より一層、聖や俗の配分が重要になるということだ。

100%危険なコンテンツは用意できないし、表面的に刺激的なだけでも届かない。どっしりと効くコンテンツ。毒も取り除きすぎない、健康を害する要素も取り除きすぎない、苦い部分、臭みのある部分も取り除きすぎない。全てを生かして、包含したまま良い部分を受け取ってもらえるように作っていく。

それを作るためには、作り手側もその配分が分かる程度に毒のあるコンテンツを取り込んでおかないといけない。与えられるままに取り込むだけでは辿り着けない境地に立っていないと、魅力的なコンテンツは提供しようがない、ということになる。

また、人の流れを作るだけのコンテンツを作ろうと思えば、その塊であるコンテキストも魅力的でないと役割を発揮しきれない。有機的に、スムーズにつながっている状態を、丁寧に細部に気を配りながら作っていく。そこでようやく、満足して帰ってもらえる。

質の高い満足を覚えてもらう。その上で、二度三度と楽しんでもらえるような造りを用意しておく。それだけ懐の深いコンテンツをいかに作るか、いかに提供するかが(社会的にも)今後のポイントな気がする。

「良い作家」を目指す、発揮するのがやっぱり目標?

じゃあ、なぜ今そういうコンテンツが少ないのか。その答えはやっぱり「作家」の質やそもそも作家不在なんだろう。コンテンツやコンテキストのコアや軸になる中心の部分、続いて行く先の根や幹になる部分を作り上げたり、表面的に触れる部分やどう見せるかという部分に対するこだわり。

コンセプトワークから、広報の監修まで担える人材は多分あんまりいない。メインのシナリオからプロデュースまでなんでもやっちゃうと言う意味では、ドラゴンクエストシリーズの堀井雄二氏が近いのかな? 漫画の神様である手塚治虫氏や萬画家、石ノ森章太郎氏とかも間違いなくその部類。ガンダムでおなじみ、富野由悠季氏も近いといえば近いか。IT畑なら、スティーブ・ジョブズ氏もそういう作家のお一人だろう。

「どういう世界にしたいのか」とか「どういうことを伝えたいのか」という高い理想もある一方で、どうしようもない闇の部分や俗な部分も持っている人。そういう人だからできる、理想を現実化したコンテンツやプロダクトが作り出せる。そこには、「どう使うか」や「どう楽しむか」も織り込まれている。

学校教育的な世界や、行政や官公庁に推奨されるようなコンテンツを最初から目指してしまうと、角のない丸いコンテンツしか残らなくなるが、本当に望まれているのは個性の強い、尖ったコンテンツやコンテキスト。「毒の部分もあるけど、楽しんでね」とするぐらいが、人を楽しませる上ではちょうどいいんじゃないかと思ってしまう。

そういうものを生み出せるんだ、そういうものを生み出す時に力になれるんだという部分を、示していきたいし、示していくしか道はない? どうやってそこに立つか、どうやってそこまでたどり着くか。ひたすら修行を積むしかない、か。

自分の小ささと道の険しさに「まだまだだな」と思ってしまうけれども、手を上げ続けて場数を踏ませてもらうというのも、やらなきゃいけないことなんだろうな。作家として大成すること。それは必ずしも文章だけで完結させなくてもいい、はみ出していく人間なんだというのも時に背中で示し、時に言葉で語っていかなくては。

執筆者プロフィール

長谷川雄治(はせがわ・ゆうじ)

物書きな作れるWebコンサルタント。
HTML/CSSのマークアップやWordPressのカスタマイズ案件を経験し、サービス構築やブランディング、サイト設計や戦略プランニング、各種原稿、書類作成まで担う。
独自色の強いコンテンツマーケティングの人という立ち位置も見出だしつつあり、不足しているものを補うべく、日々実践中。

2017.06.21

2018.04.29

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