本格的な「大衆の反逆」が起こるかもしれない

2017.09.27

後回しにしていた『大衆の反逆』をやっと読み終える。即座にアウトプットと思いつつ、少し間を置いて手をつけてみる。国内の政治、国内の経済、国際的な安保等々、今の日本が直面していることも併せて気ままに書いてみる。

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『大衆の反逆』を読んだ

著者オルテガ
翻訳寺田和夫
版元中公クラシックス

20世紀の初頭、スペインの哲学者オルテガが、当時のアメリカやヨーロッパの情勢を見て書いた一冊。今までは目に触れることのなかった「大衆」が、今や所狭しと社会に溢れている。その望ましさと、反面にある怖さとを綴っている。

ここでいう「大衆」とは、イコール「庶民」ではない。貧民でもない。かつては貴族や官僚、支配者階級に支配されていた奴隷や被支配者層を主に指す。かねてから商才を発揮していた市民でもなければ、学者でもない。産業革命や科学の発達を経て急速に自由を得た、「名もなき人々」だ。

大衆と庶民とは、知性や理性、欲望のコントロールなどの面で大きな差がある。後者は、たまたま地位や資産を得ていないだけで、知識的な教育や道徳的な教育も受けている、もしくは自力で培って身につけているが、大衆にはそれがない。いわば反知性主義の塊みたいな存在を、庶民と区別して「大衆」と呼称している。

「大衆」は歴史を学ばない

自分の身の回りにあるものの由来や、自分の安全を保障してくれているものの歴史的な変遷を、ほとんど学ばない。生きていく上で必要がないから。それまでに大勢の人たちの努力や、血と涙とが積み重ねられた上で享受できている自由や安全を、半自動的に与えられたものだと勘違いしている。

勘違いしてもしょうがない。目の前にある社会や国家、生活のインフラや資本主義というルールなど、出来上がってから参加してみれば、それが人の手で作り上げられたものだとは、とても思えない。どうやって作ればいいかも思いつかない。でも、与えられているから自由に使う。自分たちが好きなように使えればそれでいいと、使い切ることすら考えて動き回るのが、この「大衆」という存在。

ろくに歴史を学ばない。古典に目を向けない。急に新しいものが出来上がると考えている。自分たちが保とうと努力しなくても、未来永劫続いていくものだと思っている。だから維持にも向上にも参加せず、消費することだけしか考えられない。今が、自分の生活が良ければ、それでよしと思ってしまう。

大衆が恐ろしいのは、「大衆」である部分

こういう、公益や国益みたいなものを考えない人たちが、少数派なら何の問題もない。何の力も持っていなくて、社会に与える影響も小さければ、なお問題ない。ところが、昨今の自由を得た大衆は、大抵が民主主義国家に生きている。投票権を得ていて、直接的か間接的かを問わずに、その権力を行使することができる。

とにかく、数が多い。数の暴力で、大して考えもせずに社会の将来、国家の将来を決める手を打っていく。それがやがて自分たちを滅ぼすということも考えず、与えられた自由をとにかく行使する。使い切ろうと必死に暴れる。そこが、大衆の恐ろしいところ。

そんな大衆に自由を与えてしまった。あまり深く考えることのない人たちに、力を解放してしまった。歴史を学ばなくても、耳障りのいい言葉を弄するだけで権力を握れる状態を作ってしまった。その結果どうなったか。二回の大きな戦争と、その後の紛争、それから世界中に散らばり始めた核の脅威、多くの犠牲者がもたらされた。

戦争は、野蛮なリーダー一人で始まるものじゃない。民意の支持があって初めて始まる。どんな独裁国家でも、それは変わらない。でも、その結果、戦争に推し進めた大衆は誰か責任を取っただろうか。戦争に煽ったマスメディアは何か反省しただろうか。マスメディア、マスコミを見つめる目は何か変わっただろうか。70年たってなお、日本は何も変わっていないように思える。このままではまた、戦争に巻き込まれていく。

戦地で人が死ぬのも、拉致被害者をもたらすのも、全て自分たちの投票で、自分たちの理解力で、自分たちの行動であるということを思い出さないと、この国は変わらないし、この国のリーダーシップを待っている国際社会も変わっていかない。まず、自分たちの意識を変える、自分たちの頭を変えるということから取り組んでいかないと、明日の生活も不安な将来も何も変わらないんだと思い出さなきゃいけない。

だからといって、民主主義を否定する気はない

人類は、もっと豊かな自由を得る。もっと進んだ安全と、より高度な技術を得る。学問の世界や技術の世界、表現の世界で、過去から学び、未来を作るために貢献しようという人口が減ろうとも、多分進歩は止まらない。沢山の人が思うままに学べて、何が正しいかどうかを指示されることなく、多様に生きていけるのは素晴らしいことだと思う。

少数のエリートによる支配よりも、多数派の庶民による民主主義国家の方が居心地がいいし、みんなが主権者だから、簡単に戦争も起こさないし、民主主義国家同士の戦争なんて、基本的に起こらない。自分たちも死にたくないから。

でも、「大衆」をそのままにしてしまうと、それまでに人類が「大衆」を犠牲に作ってきたものが失われてしまう。叡智を誇ったエリートたちのコントロールによって生み出されてきた諸々を破壊して、自然に帰れと働きかける動きに陥りかねない。目先の利益、自分たちの欲望を満たそうとする大衆を、そのまま放っておくというのはやっぱりできない。そうなると、やらなきゃいけないのは今よりもしっかりした教育体制の構築、になってくる。

「大衆」を「庶民」に変える教育が要る

単なる学力や知能だけでなく、「修身」や「道徳」といった教育も大事になってくる。カルト宗教でないのなら、一定レベルの「神学」的な教育も、有効だと思える。まず、何より「その国の歴史」や「神話」というものはとことん力を入れて教えるべきだ。

国家とは何か、民族とは何か、自分個人ではなく、自分たちのアイデンティティ、拠り所は何かをはっきりさせて、それが失われるとどうなるか、ということを頭の片隅ではなく心のど真ん中に擦り込むぐらいでないと、自分勝手に欲望を暴走させる人間が出来上がってしまう。

日本の教育でいけば、「お受験のための勉強」はいい加減に考え直すべきだとも思う。基礎知識の詰め込みも足りないし、「受験」が全員にプラスに働かない気がする。競争は必要だろうけど、「受験のための勉強」は一定水準から上だけでいい。全員には要らない。

終身雇用の時代に、いつまでも働ける平均的な駒を量産するような、職業訓練めいた教育はもういらない。自分の頭で考えて、何が真実で何が嘘かを見極められるリテラシーを、しっかり身につけさせないとこの国は早晩滅びてしまう。

マスコミの情報操作に踊らされる無党派層は、大衆そのもの

自分の頭で考えるより、誰かの考えてくれたものをそのまま受け取って、前後関係をきちんと見極めずに投票する。あるいは政治がわからないからと選挙に行かない。こういう「大衆」が日本の足を引っ張っている。70数年たっても、未だにGHQの洗脳が続いているんだろうな、と関心してしまう。

でも、関心するだけでは終わらない。今の政界の動き、マスコミの印象操作に近い報道を表面だけ受け取ってしまうと、本当に国が転倒しかねない。安全保障しかり、経済しかり、外交しかり。何を選ばなきゃいけないか、中長期的な目で判断する力を大人が有して行かないと、日本という国は簡単に消える。それだけはなんとか避けたいなと思うのだけれども、何からやればいいか迷うばかりでもある。

やっぱりどこかで、きちんとしたメディアを立ち上げるべき?

自体は逼迫しているのだけれども、焦ってもしょうがない。じっくり時間をかけて、本当のことをきちんと発信していけるメディア、人材を作っていかないとダメなんだろうなぁ。スキルも資金も経験もまだまだ足りないから、本当にゆっくり道無き道を進んでいくことになるんだろうけど。またその中で、教育の在り方や日本の在り方、また個々人の在り方というのも併せて考えていくというか、一緒に学んでいくような枠組みも作らなきゃいけないんだろうな、とも。

今はやりの政治塾をやろうとは思ってないし、そんなのを立ち上げられるほどの人材も身近にいない。一から色々検討していって、遅すぎたと言われない程度のタイミングで形にしていかなきゃダメなんだろうな……。いやはや、頭や気持ちは先走るけれども、際立つものも度胸も足りず、全然行動に落とし込めていないなとまた悩む、と。悩む前に、少しでも動いてみろってね……。

執筆者プロフィール

長谷川雄治(はせがわ・ゆうじ)

物書きな作れるWebコンサルタント。
HTML/CSSのマークアップやWordPressのカスタマイズ案件を経験し、サービス構築やブランディング、サイト設計や戦略プランニング、各種原稿、書類作成まで担う。
独自色の強いコンテンツマーケティングの人という立ち位置も見出だしつつあり、不足しているものを補うべく、日々実践中。

2017.09.27

2017.09.27

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