どんな世界観を与えられているか、きちんと見定めたい

2017.10.04

『富国と強兵』を読んでから、レーニンの『国家と革命』の冒頭を読んでつい閉じてしまった理由を、なんとなくで考えてみる。

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「世界をどう観るか」って多分大事

中野剛志氏の大著、『富国と強兵』を読んでから、レーニンの『国家と革命』を読んだのだけれども、どこか偏った見方から論理が展開されているような気がして、冒頭から先を読む気にはなれなかった。もちろん、立脚点が大いに違う。歴史の流れを大きく見て、今の立場で検証しながら客観的に論理を展開できる中野氏と、当時の立場、自分の見える範囲、育ってきた範囲で論理を展開せざるを得なかったレーニンとでは見えるものも違えば、考えることも違うだろう。

でも、レーニンという人のその後の影響力を鑑みれば、この偏り方をすんなりと受け入れるだけの度量は自分にはない。彼の育ってきた環境はあるだろうし、当時の時代背景やコンテキストの問題はあるだろうけど、捻くれたエリート、育ち方があまり良くなかった人の世界の見方、みたいなものを感じざるを得ない。

まっすぐ冷静に、物事を見れていたとは思えない。あまりにも歪んだところから、猛烈にルサンチマンを募らせて書いた文章なんじゃないかと思ってしまう。きっと、頭はいい人なんだろうし、背後にあるコンテキストや土台の思想に疑問を抱かない人が文章を読めば、「なるほど」と思う要素も多分にあるのだろうけど、これをもって共産主義やコミンテルンみたいな動きに移っていくのは狂気の沙汰であると言いたくなる。

世界や出来事は、「そこに在る」だけ

自分の身に何が起きても、「客観的に解釈しろ」と言われても当事者としては難しい。それは分かる。革命家であろうと、思想家であろうと、哲学者であろうと、職人であろうと、結局は人だ。感情も持ち合わせていれば、生まれおちる家庭の違いというのも無視できない。まっすぐに育つからいいとは限らず、歪んで育つからこそ発展に貢献していく人たちもいる。

でも、だからこそ真っ直ぐに立つというのが難しい。一人で完結するような人材や、アーティストならそれでもいいのだけれども、何人もの上に立つ指導者や、社会運動を引き起こす土台となる思想を紡ぎ出す人間が、そういう歪みを抱えたまま克服できない人だった場合、大きな破壊が起こりうる。そして実際にその事件は何度も起きている。

出来事の感じ方をニュートラルにする、自分の育ってきた環境や背景を捨ててすんなり受け入れる。これが簡単にできるなら、何も悩まない。簡単にできないから、人類はいろんな問題を克服できずに今に至っている、ように思えてならない。

コンテキストから切り離してコンテンツを解釈するというのは、至難の技。その感じ方を作っていくのは時代であり、信じられている社会通念や宗教であり、身の回りにある家庭であり、育ってきた人生である。誤ったとは言わなくても、少し偏ったイデオロギーの上に立脚して、目の前にある出来事の「解釈」を恣意的に歪めていけば、現実とは異なるものを見出すことになってしまう。

これが本当に、「現実」を捉えていれば大きな問題には発展しない。でも、まずそうはならない。見なくてはいけないものを見逃して、関連がないものの間に因果関係を見出してしまう。現実を歪め、いいように解釈を選んでいく。その先に待つのは、数人を犠牲にする大きな間違い、だ。徒労で終わればいい。人命や財産、才能を無駄に捨ててしまう間違いであれば、取り返しがつかないという事態もあり得てしまう。

真っ直ぐに物事を見て、冷静にありのままを受け止めることができれば、間違いは起こらない。でも、その見方、その世界観から逃れるというのは簡単じゃない。

解釈の仕方、世界の見え方は大きな影響力を持つ

どんなイデオロギーを信じるか、どんな目で世界を観るかは、生き方の土台になってくる。複数集まれば世間や社会に、国家や政治経済の下敷きになれば、世界を動かす原動力にもなり得る。まさに、「世界観」だ。フィクションにおけるプロット、世界設定と大して変わらない。「そういう世界なんだ」と信じて、何が起こっても「そういう世界」として都合のいい解釈を選び続ける。

イデオロギーや解釈が正しいかどうかを点検するのは難しい。何しろ、「その世界」にどっぷりと浸かり続けることになる。社会が何を信じているか、学問として何を信じているか、宗教として何を信じているか。その大きな枠組みの中、どんな家庭で育っているか、どんな村で育っていくか。「正しい解釈」はイデオロギーの上にあり、イデオロギーに沿っていなければ「正しい現実」であったとしても、「間違いである」と判断される。バイアスのかかった答えだけが正しいとされてしまえば、本当に客観的な解釈というのはどんどん選べなくなる。

一度異端とされてしまえば、どう考えても正しいことであったとしても、排除される。寛容に受け入れろと言ってみたところで、全ては信じ込まれているイデオロギーの上に立っているのだから、それが崩れてしまうような特異な考えを排除する方が治安的にも秩序的にも安心できる。

そうやって現実を見ないまま、みんなで死んでいく。正しい見方を得て考えを変えていけば全員で発展していけるのに、信じている、あるいは信じ込まされているイデオロギーが絶対だと信じて、滅びる方を選んでしまう。みんなが選ぶから、と。

本当にそのイデオロギーで正しいのかどうか、立ち止まって考えたいのだけれども、配られた台本、根付いた世界設定から逃れるというのは中々難しい。それでも、何が正しいのかは発信し続けていかなきゃいけないんだろうなぁ……。

本当に「そのプロット」、「その脚本」でいい?

脚本や世界設定が存在しているのは、フィクションだけに限らない。気がついていないだけで、誰かの書いたプロット、誰かの設定した世界設定の中で生きていたりする。社会や政治を動かすような大々的なものに限らず、各家庭に引き継がれている忌まわしい毒親、歪んだものの見方ということも十分ありうる。

目の前に何があって、自分の感じ方や自分の立ち方がきちんとニュートラルになっているのか。常に半信半疑で見ていかないと、自分だけじゃなく、自分の大切なものも失うことにつながる。世界も出来事も、いつだって「そこに在る」だけ。それをどう解釈するか、どう関連付けていくかを慎重にやる、間違った解釈をしたと思えば解釈し直すのも大事なテクニック。

世界の見方を変える、自分が生きる脚本、世界設定を選び直す。自分の感じ方、解釈の癖を治していく。そこからやらないと、戦略や戦術を見直すだけでは中々軌道修正を図るというのは難しい。

国家レベル、社会レベルで間違った世界観、間違ったプロットを植え付けられた現代日本は、その呪縛も一つ一つ解除していかないと、自由に生きる、独立して生きるという選択は取り辛くなっているんだろうなぁ、とも思う。急な方針転換は難しくても、何を信じるか、信じているものを大事にし続けるかどうかは、定期的に見直していく方が良さそう。

自分がどう育ってきていて、どういう解釈に偏りやすいかも、定期的に見直して、認知バイアスをかけすぎないように注意したいところ。『富国と強兵』から全然関係ないところに話題が拡がったところで、終わりにしよう。いやぁ、長い(笑)。

執筆者プロフィール

長谷川雄治(はせがわ・ゆうじ)

物書きな作れるWebコンサルタント。
HTML/CSSのマークアップやWordPressのカスタマイズ案件を経験し、サービス構築やブランディング、サイト設計や戦略プランニング、各種原稿、書類作成まで担う。
独自色の強いコンテンツマーケティングの人という立ち位置も見出だしつつあり、不足しているものを補うべく、日々実践中。

2017.10.04

2017.10.04

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