やせ我慢してでも、自分らしく生きてみる

2017.10.17

いかに生きるべきか。いかに社会と関わるか。案ずるより産むが易しとは思いながらも、考えすぎて動けないモードに肩まで浸かる日々。悶々としながらも書籍を手に取り、アウトプットしきっていないことに向き合ってみる。

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『知識人とは何か』を読んだ

著者エドワード・W・サイード
翻訳大橋洋一
版元平凡社

学者や教職者、官僚といった文官から、聖職者のような「知識」や「情報」を拠り所とする人たちだけでなく、知識を活かして世の中に居場所を見出していく人たちも含んで、サイードの思う「知識人」について論を展開していく著作。かつての支配者層や、インテリゲンチャ、世の中に増えた各種専門家やエキスパート、コンサルタントといった人たちを相手にしながらも、著書が思う「知識人」は必ずしもそういう人たちとは限らない。

サイードによれば、「知識人とは亡命者にして周辺的存在であり、またアマチュアであり、さらには権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手である」と。専門知識を活かして利に聡くなることでもなく、その世界での権力闘争に打ち勝とうとするのでもなく、ただただ愛好精神で知識に向き合い、自分を守るためでなく、何か目に見えないもののため、己の信じる信念のためにこそ生きる存在が、「知識人」なのだろう。

結局、自分は「知識人」なのか

自分から「知識人である」とのたまえるほどのスキルもステータスも持ち合わせていない。早合点する頭、学力もたかが知れている。権力に対して真実を語る努力はできたとしても、その言葉の切れ味は今ひとつだろうし、論じる力も今ひとつ。身に余る表現であるのは間違いない。

それでは、自分は何者なのか。単なる労働者、作業者、オペレーターとしての書き手やWeb屋さんというのは投げ捨てて久しい。その一方で、労働者に賃金を支払って利益を出す資本家かといえばそれも違う。よくて職人や芸術家のポジション、小生産者。ただ、その位置付けでも色んなものが不足している。

じゃあ残るは地主か官僚かということになるだろうけど、そのどれでもない。どこにも属し切れない中途半端な存在。その状態で何を打ち出していくべきか迷いながら、自分としてはどう生きていきたいのか、どう社会と関わっていきたいのかを読みながらひたすら考えていく。そうすると、案外「知識人」というカテゴリーが近しい気はしてくる。結局、作家と知識人という掴みどころのない領域に自分を置きたいのだろう。

何よりも、まずは「観察者」で居続けたい

独自の感性、独自の立ち位置で世の中を観察する存在であり続けたい。アダム・スミスやカント、オルテガ等の思想家、哲学者がそうであったように、穏やかで優しい眼差しを持って広く人間や社会というものを見つめていきたい。その上で、自分なりの言葉でそれを後世に伝えていくという仕事は成し遂げてみたい。

ただ、そこに専門家的な味付けもあまりしたくない。そういう研究者、観察者を続けるのなら、どこかの企業に属してみたり、大学に属してみたり、博士号を取るなり、資格をとるなりして自分の足場を確保する、誰かに与えてもらうシークエンスを踏まえてからやればいいんだろうけど、それすらしたくない。

自分の生み出すものに、何らかのバイアスをかけるのはできるだけ避けたいし、バイアスが掛かった状態で自分の言葉や思想に触れて欲しいとも思わない。あくまでも市井に生きる一人の人間として、ちょっと変わった感性の持ち主が見つめた結果として考えや言葉をまとめたいのであって、それを持って誰かに何かを押し付けたり、強く何かを糾弾するというのもやりたくはない。

言葉や思想に触れた結果、感動するなり狂うなりした結果、意図しない形でムーブメントが起きるのを企図、もしくは期待したい。山気は目一杯隠しながら、自分の伝えたいことに集中する。その迫力、熱量でつい動いてしまうようなレベルを目指してみたい。なぜなら、それがより一層難しいやり方に思えるから。

「賢く生きる、上手に生きる」より「自分らしく生きたい」

そういう一連のことを、上手にやればもっと楽に生きれるだろうし、もっと分かりやすいんだろうけど、そういう必死さや小狡さは美しくはないし、理想とする自分の姿からは遠ざかる。資本主義社会の中を上手に泳いでいくために知識を活用するなり、自分のスキルを活用するなりしたっていいんだろうけど、在りたい自分から離れるのであれば、それをするぐらいなら死んだほうがマシだとも思える。

何者にも縛られることなく、常に飄々としておく。無頼派というような大それたものでもなく、ただただ風来坊っぽく、常に斜に構えて何か企んだように微笑んでいるぐらいが丁度いい。それを貫くのは楽ではないだろうし、貫いたところで意味はない。とことん無駄だろうし、とことん無意味だろうけど、そういうことを一人ぐらいやってないと何もかもがダメになる気がするし、辛いやせ我慢を誰かにやってもらうぐらいなら、自分が引き受けたいとも思うしね。

賢く生きたり、上手に生きたりして小さくまとまるぐらいなら、やせ我慢して自分らしさを貫いて生きる。普通に考えれば正しくない路線なんだろうけど、あえてその間違っているほうを選んでみようと思う。

「知識人」も「作家」も非熟練者が増えている

「知識」も「コンテンツを作る人」も、サイードが原点を描いた頃に比べれば格段に障壁が低くなっている。知識を扱う「知識人」のクオリティもどんどん質の低い人が増えていって、注釈を読まない知識人が増えたように思う。「コンテンツを作る人」は表面的なギミックを追うだけの人が増えてしまって、「味わい」は置き去り。両方、自由化が進んだ結果、低レベル化が進んでしまっている。この動きは多分止められない。

送り出すほうの質も低下している一方、受け取る側の質、リテラシーも低い層が一定数出て来ていて、増えているとは言わないものの、減ることはなさそうに思える。せめて受け手のリテラシーが上がって、質の低い「知識人」や「コンテンツ」を表舞台から消せればいいんだろうけど、それも簡単ではない。

この問題をよりややこしくしているのが、一見正しいことを言っているように思える、ある程度の地位を確立した人が「そういう役割」を担ってしまっていること。特に、SNSの著名人やIT、Web業界の有名人、起業家は「金を稼いでいるから」という理由で一目置かれがちだけれども、必ずしも正しいことを言っているとは限らない。政治家の中にも、発言の怪しい人たちが複数いる。

メディアや教育の領域で、全うな「知識人」や骨太な知識人が減ってきているのは由々しき事態。この流れは本当になんとかしないと、亡国まっしぐら。言葉の問題、注釈まで読める読解力、行間を読める想像力、背景情報やコンテキストをしっかり見極められるリテラシー、そういう要素を磨いた上で、フェイクニュースに向き合うようにしていかないと日本の再起は難しい。

いい加減、「色々足りない」とか「自分ではxx」とか言わないで、やることやんないといけないんだろうな。さて、どうしたらいいのやら……。

執筆者プロフィール

長谷川雄治(はせがわ・ゆうじ)

物書きな作れるWebコンサルタント。
HTML/CSSのマークアップやWordPressのカスタマイズ案件を経験し、サービス構築やブランディング、サイト設計や戦略プランニング、各種原稿、書類作成まで担う。
独自色の強いコンテンツマーケティングの人という立ち位置も見出だしつつあり、不足しているものを補うべく、日々実践中。

2017.10.17

2018.04.30

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