Vol.1 用語の整理「自由」について

2019.06.14

「vol.1」だから、本題に入っていくべきなんだろうけど、本格的な意見陳述に先立ち、使用する用語のニュアンス、イメージをある程度絞り込んでおく。特に誤解を孕みやすそうな「自由」は、ここでまとめておいた方が良さそうなので、今後の前提として、あるいは最初の意見として取り上げる。

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「自由」について、自論のための絞り込みをしていく

ただし、「自由」なので、用語の定義とか大層なものにはしたくない

自由とは何か。それをどう言い換えるか、どういう状態を指すのか、どう解釈するのかも、人それぞれ。それこそ自由だ。何者にも縛られず、何者にも強制されず、自分の判断、自分の価値基準で決めていいし、途中で変えたっていい。何回変えるか、それも自由。

「自由」と言われて思い描くイメージ、受け取るニュアンスは人それぞれだし、どう受け止めるか、どう解釈するか、その一切合切は皆さんに委ねる。こう考えるべきと強制する気もないし、こう考えた方がいいと促すつもりもない。

ただ、今後の意見陳述で使う「自由」のニュアンス、イメージは説明しておかないと、伝えたいことまで自由にとっ散らかってしまう、何も述べてないのと同じ状態になりかねないので、あくまでも一連の説明の中における「自由とは何か」を述べておく。

ただ、あくまでも、「自分はこう考えている」を好き勝手に述べるだけなので、「それ面白い」とか思っていただける方にのみ、好意的に受け止めてもらえれば十分、ぐらいの感じでお考えいただければ幸い。「合ってる」とか、「間違ってる」とかも、それこそ自由に解釈してください。

と、毎度長すぎる前振りをしておいたところで、以下、本題に入っていく。

「自由」 = 自分勝手、無秩序ではない

単なるフリーダム、無法とは別物の「自由」を指す

「自由」と聞いて思い浮かべそうな、縦横無尽に走り回る量子や分子、元気いっぱいなキッズ、その他諸々。まず、そういった「自由」は今後述べる「自由」とは異なっていると、最初に掲げておく。

自分の好き放題に、何者にも縛られることなく、第三者や相手の存在を無視して暴れ回るという「自由」も間違いなく「自由」ではあるものの、その手の「自由」ばかりになってしまうと、身の回りは「無秩序」や「無法」の状態に陥ってしまう。自分の自由が、他者の自由のみならず、回り回って自分の自由を奪う状態になりかねないので、このタイプの「自由」からは少し距離を置きたい。

ここでのポイントを挙げるとすれば、「無遠慮」や「無配慮」は「自分の自由」も奪う可能性があるということ。もちろん、金銭や武力、恣意的な法律制定などを含めた「力」を有していれば、「自分の自由」を保ったまま「他者の自由」を奪ったり、第三者を支配することはできなくはない。しかし、そういった状態は長続きはしないだろう。遅かれ早かれ、不満を抱いた誰かが「自分の自由」のために立ち上がり、「支配者の自由」や「統治」を破壊しにくる。

つまり、「誰かの自由」を犯す、あるいは検討や勘定に入れない「自由」というのは、自分のためにならない。社会のためにならない、とか大上段に構える必要すらなく、自分のために、相手にも、第三者にも配慮しようという、それだけのお話。これが、「自由」を考える上での大前提。

じゃあ、今後考える「自由」ってどういうことなのか。まずは、意図するニュアンスをワンフレーズで掲げてみる。

「自由」とは何にも依らず、自らの力で自然に立っていること

武道の達人のように、力みも淀みも感じさせない状態が目標

肉体的にも精神的にも、独りの力で立てていること。何かに依存することもなく、何かの支配を受けることもなく、外側からの圧力や事情にも影響されることなく、自分で自分をありのままに制御できている状態を、これから意図する「自由」のイメージに据えたい。

「自立」や「自律」、「独立」という言葉の方が正確かもしれないし、仏教や禅の用語でいう「自然(じねん)」のニュアンスとも重なるところがあるので、思考を精緻に積み上げていくには別の言葉を据えた方がベターに思えますが、あえて「自由」という言い方を選択します。

例えば、自立や独立、自律という言い方だと「自分」の要素が若干強く、また「自由」より使える局面が狭くなってしまいますし、「自然(じねん)」だと自然や周囲との協調、「周囲に合わせる」ニュアンスや他者主導のイメージもある上に、その都度の説明が難しくなる、別の手間がかかる可能性もはらんでいるので、より一般的な「自由」という表現に集約しようと考えました。

思想の自由、信仰の自由、表現の自由の「自由」を見直していく、新しいニュアンスを付与していくためにも、使われる局面が広く、状態を指すだけに留まらず、名詞的にも動詞的にも持ち出せる「自由」を使おうと思います。

より正確に、補足気味に追記しておくと、ある程度は自分軸でありつつ、周囲の存在も加味した上で、完全に混ざり合うのでもなく、対立するのでもなく、ほんのわずかに距離を置いて、独立した自分の領域を物理的や精神的を問わずに有しているイメージ。あくまでも外柔内剛、周囲に合わせすぎない、流されない硬い自己も持ち合わせている状態を指したかったので、「自由」としました。

ただし、完全な独立、100%の自分勝手は不可能

世の理(ことわり)や他者を無視した「自由」は自由にあらず(=無秩序、自分勝手)

何にも依存せず、何の力も受けずに「自分の力で立つ」は、物理的にも精神的にも不可能。地上で生きる以上、地球の都合や重力、水や空気、物理法則を無視して立つことはできないし、その世界で動き回る「生き物」として二本の脚で直立姿勢を取ろうと思えば、腰と肩が固まらないと話にならない。

一個の動物、海を離れて生きる多細胞生物としては、進化の過程で作り上げた体内の複雑なコロニー、食欲や性欲を持つ野生動物の本能、理性とともに精神を左右する感情の存在を無視してしまうのも、得策ではないでしょう。

社会を構築し、都市や国家といった高度なシステム、文化や文明、社会規則といったルール、フィクションを守ることで繁栄を手に入れた人類としては、そこで生きる他者や、文化や社会を作り上げてくれている「誰か」のことを完全に無視して、自分勝手に生きるのも難しい。

文明や社会から離れて、「人間らしい生き方」をしたいのなら、それはそれで大勢が守る社会やルールから遠ざかって、「誰にも迷惑をかけない」、「自分の生き方を誰にも強制、強要しない」という前提が必要でしょう。

精神的な部分ですら、誰かに教えてもらったり、既存の社会通念を学び、教えられて、外から教えられた「言葉」の上で育つ以上は、完全な自由、誰の力も借りない独立した状態というのは、不可能に近い。

すでにそこにある「何か」を踏まえた上で、バランスを取る

反知性や無垢な「自由」とは違う、「型破り」の自由

「郷に入っては郷に従う」。その上で、許されている範囲で自分らしさを打ち立てる。誰にも依存せず、縛られず、支配されない心と頭、身体を見出すこと。

誰の支配も受けたくない、縛られたくないから、何者も支配しない、冒さない。依存じゃなくて、コミュニケーションを通じた協力や協調を目指す。無遠慮に傷つけられたくもないから、誰も傷つけないように他者や社会に配慮する。

「自分以外のもの」を考慮に入れる、勘定に入れた上での「自由」を見つける、考える。それをするには、世の理や人の根、社会や先人の積み重ねてきたものを知る、学ぶ、周囲の状態や変化をよく感じ取る必要がある。自分のことをよく見て、相手のことをよく知り、社会や学問をよく学び、修練や鍛錬を積んだ「自由」じゃないと、「真の自由」とは言えないでしょう。

何も知らず、何も学ばないまま、無知性や形無しの状態で手前勝手に、周囲の迷惑を顧みず、自分の権利を主張する、振りかざすのは、目指したい「自由」ではありません。

ただ、「100%の同調」や空気を読む、先回りの自粛だけ、というのも在るべき姿とは思えないので、時と場合に応じて、ちょっぴり破壊的というか、反抗的な自分を打ち出すのは許されるでしょう。大事なのはバランス、自他の間で調和を保つこと。自分を失う、従順な羊になりきるのも得策とは言えません。

大切なのは「敬意」と「本質を見抜く」ことと「自分で考える」こと

謙虚に学ぶ姿勢、守破離の徹底、教養を学ぶ

先人の成し遂げたことや、他者が大切にしていること、他者の権利や持ち物に対して、しっかり敬意を持ち、時にはそれを示すこと。自分の自由は、他者の自由と表裏一体。自分も冒されたくないなら、敬意を持って他者と接すること。

そして、古くなったからと言って、簡単に伝統を排除しない。誰かが必死に打ち込んで成し遂げたものにも、敬意を持って接すること。「自分の意見」を打ち出すのなら、周りや相手のことをよく知った上、過去をしっかり学んだ上で、上乗せすること。否定的な要素が含まれるのなら、よりいっそう気を使って、なぜ否定するのかを丁寧に盛り込むこと。否定する場合の根拠の有無はケースバイケースだと思うので、ここでは特に問題にしない。

また、他者への敬意を持つためには、同時に謙虚さや自制心、自律も身につけておきたい。自尊心は重要なものの、周囲への配慮を欠いたり、虚勢を張った状態では、無意識のうちに他者を傷つけたり、素直に学ぶことができなくなってしまう。無闇に謙遜する必要はないが、自分を大きく強く見せる必要もないはず。小さい自分、無知な自分、未熟な自分としっかり向き合い、認めるようにしよう。

一定の型を学び、それをとことん守って修行する時間というのも、「自由」へ至るには欠かせない道。自由のための学問、リベラルアーツ(=教養)も同時に学び、読書なり、観劇なりで、幅広く「人」や「人が考えてきたこと」を身につけておきたい。

何も学ばないまま、何の型も身につけないまま、「自分の頭で考え」たところで、それは「すでに誰かが考えたもの」だったり、「誰かの考えに影響されて出てきたもの」だったりするし、「何の裏打ちも価値もない空理空論」になってしまう恐れもある。もちろん、「誰かが積み上げたもの」を学んで、「自分らしさ」を考える以上、「他の影響」というのは避けられないものの、「何故、その影響を受けているのか」、「何故、その考えをベースに選んだのか」が説明できるのとそうでないのとでは、大きな差が生まれる。

自分の考え方のベース、そのベースになった背景も分かった上で、自分の経験や感性で見えてきたものを上乗せする、あるいはブラッシュアップして新たなものを考える。そういう姿勢を作り上げるには、本質を追求する能力、追求するために必要な教養、自分の頭で考える習慣、一次ソースやその裏側、行間まで想像して追いかける癖、自分で実践して検証する姿勢というのが大切になる。

「当たり前」や「相手の常識」、見えないコンテキストに流されない

自分の一挙手一投足に、自分で責任を持つ。安易な同調も厳禁

「当たり前」と言われているものも、丁寧に紐解いていけば、案外誰かが勝手に決めたルールだったり、勘違いから始まった習慣や決め事だったりすることもある。「常識」と振りかざされる価値観、先入観だって、敬意を持って接しはするものの、相手がこちらを支配する、同調を促すための圧力にすぎないこともありうる。

マスコミの論調やSNS上の空気、あるいは日常生活の中で、自然に織り込まれた潮流に巻き込まれ、無意識のうちに感情や行動を促されている、遠隔で支配されているというのも、決してゼロとは言い切れない。

そういう時、多数派や見えない風潮、圧力に対して、どう向き合うか、どうバランスを取るか。合わせるのか、逆らうのか、どの考えに納得して、行動を選ぶのか。自分の頭で考えているようでいて、本当にそうなっているのかどうか。ふと立ち止まって、自分はどうしたいのかを正確に把握することができるのか。

いついかなる時も、どんな瞬間であっても、どんな結果が待っていたとしても、自分がやったことに対してきちんと「自分の責任だ」と思うこと。そう思えるように自分を、心身ともに磨いておくこと、鍛錬しておくこと。その上に立つ「自由」でなければ、これから目標としたい「自由」とは言えません。

全然ラクじゃない「自由」が、これから目指したい「自由」

誰のマネでもない「自分の生き方」が、出来てこその「自由」

誰にも依存せず、誰にも同調せず、他者と社会に対してしっかり敬意を持って向き合い、「自分らしさ」を上乗せしていく。つまり、「他の誰でもない自分自身」を生きていく、表現していかないと、ここで目指す「自由」には辿り着けないと考えています。

自分の頭で考えて、何を選んでも自己責任と分かった上で、自分の足で、誰を支配することもなく、しっかりコミュニケーションして協調しながら前へ進む。日本人はあまり得意でない生き方じゃないでしょうか?

誰かに支配される方が、実はラク。自分を立てず、周囲の同調して生きるだけの方が、ストレスもかかりにくい方の方が多いんじゃないでしょうか? その世界の中でゴマスリしたり、政治に走ってみたり、他者に対していかにマウントを取るかを考えてみたり、リスクを避けて誰かが通った道、誰かが切り開いた道でそのまま消費する。量産型になって社会に埋もれる、歯車となって回り続ける方が、自分に向いているという方、沢山いらっしゃるように思います。

しかし、この風潮だけでは、自由に生きるというのは難しいでしょうし、社会的に自由を実現するというのも、厳しいでしょう。ラクな方に流れがちな弱さ、リスクを過剰に回避してしまう臆病な心理、容易に群れてしまう孤独耐性の無さ。そういう諸々をしっかり認めながら、またその手の弱さがあることも容認した上で、克服できるのならそれをサポートする。自由に生きたい人たち、真の自由を謳歌する方々と共に生きていける社会が少しでも作れればいいなと思っているのですが、それは次の話題で改めて述べましょう。

兎にも角にも、いわゆる「自由」とは恐らく違うイメージの「自由」。形無しの「無秩序や無垢の自由」ではなく、守破離を経た「自律や鍛錬の果ての自由」。福沢諭吉が目指したかった「一身の独立」と似たようなところを、「自由」という表現に置き換えて、求道していきたいですね。

執筆者プロフィール

長谷川雄治(はせがわ・ゆうじ)

物書きな作れるWebコンサルタント。
HTML/CSSのマークアップやWordPressのカスタマイズ案件を経験し、サービス構築やブランディング、サイト設計や戦略プランニング、各種原稿、書類作成まで担う。
独自色の強いコンテンツマーケティングの人という立ち位置も見出だしつつあり、不足しているものを補うべく、日々実践中。

2019.06.14

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