vol.3「支配」や「力関係」から抜け出したい

2019.06.16

ようやく本題。語りにくい話題、やや概念的なところから入っていこう。とはいえ、綺麗に体系化できている訳でもないし、ここの記事は書きながらまとめているところがあるので、当初の想定通りの仕上がりにならない可能性もあるので、長すぎる与太話、暇潰しがわりにでも使っていただければ幸いかな。

この記事は 約 12 分で読めます。

※「今の世の中」に馴染み切れない人間の、願望強目の内容です

「今の世の中」が機能している前提の、自立も成熟もしていない思考(の断片)です。

これから、書きながら考えていく思考は、正式な論文のように、何らかのテキストや実証、数式などを足がかりに展開しているものではありません。また、関連していそうな分野についても、熟知した上で飛躍しすぎないように論理を整理したものでもありません。

ワガママな奴が、自分に都合のいい願望をかなり盛り込んだ、自立とも完成とも程遠い、良くて生煮え程度の考えです。真っ当に社会活動に参加されている方々、経済活動に参加されている方々の存在、「今の社会」が継続して運営されていることがある程度前提、最初期は半分寄生するようなイメージ、都合のいい立ち居振る舞いが多数盛り込まれてしまっていることを、予めご了承ください。

今に至るまで積み上げてきた方、今が持続するよう尽力されている方々に尊敬と感謝の念を表しつつ、ワガママ極まりない、無責任な論を展開していこうと思います。

近代以前から続く統治、社会秩序のための権威は大切にしたい

稼いだ者勝ち、上手くやった者勝ちの中で生み出されたものを、見直したい

21世紀になってしばらく経ったのだから、旧世紀の遺物、全時代的な考え方は、全て一掃しよう。旧いものは全て葬り去ろう。今の所、そういう考えには至っていません。その一方で、「文明以前」や「自然、ありのまま」に帰ろう、素朴な生き方に戻っていこうと訴える気もありません。

ただ、世の中をざっと見渡した時に、産業革命、あるいは資本主義が明確に打ち出された頃、日本では明治維新前後に後付けで差し込まれた、一部の考え方や制度、仕組みに限界が来ているようにも思っています。問題の中核にあるのが「拝金主義」や「市場主義」。兎にも角にも金を稼げ、どんな手段を使ってでも金を稼いだ奴、金を持っている奴が強い。金を一旦握り締めたら、金の力で自分の立場を守るために全力を投じる。そういう「金の亡者」や「資本主義、国家運営のスポイルスポート(掟破り)」に対して、分かりやすいステータスやシンボルだけを信用して、特定の権力や権威、貴さを見てしまったのが、この150年ぐらい続く誤り、衰退や違和感の大きな要素じゃないだろうか、と。

経済や国家も、実態は一種のフィクション。物理的に実在するものではなく、関係している人たち、その中に参加している人たちが、明文化されているされていないを問わず、ある種のルールを守って動くことで成立しています。「守ったほうがいい法律」もありますが、「心にとめておいた方がいい価値観」や「守っておきたい信念」、「言わなくても、お互いに分かっていると推測される共通認識」が、実はあちこちに散りばめられ、埋め込まれていて、そういう世の中で我々は毎日を生きています。

資本家は資本家としてなすべきことを、国家や官僚、政治家は、それぞれの立場でなすべきことをなす。もちろんカウンターパート的な労働者、市井の民もなすべきことをなしていけば、「(ある程度の)多数の幸福」は実現できるはずなんですが、少なくとも今の日本ではそういう図式が崩れていて、それも最近崩れたのではなく、随分長い間崩れっぱなしのままほったらかしにしておいたために、その歪みはかなり大きくなっている、色んな綻びがそこここに見え出している、ような気がします。

『プロ倫』や『資本論』、せめて『マネジメント』に還れ、というつもりもない

高邁な精神性、敬虔さも大事だけれど、宗教性は遠ざけたい

誠意や真摯さを持って顧客と接する、労働者に対してきちんと向き合い、大切に扱う、社会に対する公器としての役割を果たす。階級の問題や国家の問題にも向き合い、どうすべきかをしっかり考える、行動していく。どれも素晴らしいことではあるものの、実践できる人とできない人との間に見えない線を引いてしまったり、筆者の理想や思い込みも多少混じった書物を盲信する、あるいは書き手自身をカリスマ化して実情に照らし合わせることなく、「全て正しい」と鵜呑みにしてしまうのも、危険というか、個人的にはノーサンキュー。

どんな書籍であっても、長い時代を耐え抜いた古典は、その時代の人々が、専門性も持ち合わせて世に送り出してくれた名著には違いない。価値が全くもってないとは口が裂けても言えないし、敬意を持って接するのが自分のポリシーではあるものの、同時に批判する、他の人の論評も参考に考えてみたり、自分の頭で検証すること、時代に合わせて「そこで述べられている本質」を変化させることも、非常に重要だろう。

個人的に危険だなと思うのは、「偉い人」や「古典的名著の作者」をカリスマから教祖に格上げして、徒党を汲み出すこと。独自のコミュニティ、経済圏や文化圏を作り出し、内と外に境界線を作って、仲間内とその外側とで異なる態度を取り始めてしまうこと。内側では内側で無意味なラベリングで階級を作り、外側に対しては「まだ分かっていない人」とどちらに対してもマウンティング、上下関係や支配といった要素を持ち始めてしまうこと。

境界線の内と外とで違う基準、ダブルスタンダードを持ち出してしまうのも良くない兆候だし、自分たちと違う考えの人(たち)に対して、敬意を持って接することができなくなってしまったり、どっちが上か下かを持ち出してしまうのも、良くない兆候。一種のファシズム、ファッショは「自由の寡占(=支配の固定)」や「自由の収奪」(=中長期的には全体の衰退)に繋がりかねない。

だから、盲目的というか、「何も考えずに何々でいい」になるのは辞めましょう、と。誰かが考えたことになびく、誰かが決めたルールに順応するほうがラクだし、エネルギー的にも消費が少ないけど、それでは「自分の自由」も「ワクワクする未来」も遠ざかる。

「〇〇が正しい」、「誰々が正しい」を変に増やしたくない

「正しさ」に集まる権威や力は、いつか周りに牙を剥く

服従しておくというか、承服しておいた方がいい、「どうにもならない正しさ」とか、守っておいた方が良さそうな価値観、権威、仕組みは存在するものの、「特定の誰かにとって都合のいい正しさ」は必ずしも社会全体のため、「多数の幸福」のためにならないことがある。

「正しさ」の判断を、資本主義的なものや市場主義的なもの、根拠や裏打ちの弱い権威性などを起点にしてしまうと、その「正しさ」に疑問符を付けざるを得ないんだけど、自分の生活で忙しい「世の中の人」はそんなところまで考えたりせず、分かりやすいラベルやパッと見で理解しやすい価値基準だけで「守るべき正しさ」かどうかを判断してしまう。

その「正しさ」を作り上げる過程で、誤解や誤謬が含まれているケースや、正しさを捻出するためのインチキもある。インチキや勘違いのオンパレードで「守っておいた方が良さそうな条文」に信ぴょう性を持たせたり、都合のいいデータや事実をでっち上げたり、脚色が施されている場合もあるのにも関わらず。

そうして作り出された「正しいとは言い切れない正しさ」が、特定の人たちの利己的な美辞麗句、ありもしない虚像、守る価値もないフィクションに過ぎないのに、気がついたら本物の力と、周囲の人を操るだけの立場や権威性を有していることもしばしば。間違って与えてしまった強さや力を奪おうにも、そう簡単には実行できない。

「変な正しさ」を信奉し、「変な正しさ」に力を与えてしまうと、その「変な正しさ」で力を手に入れた利己的な連中に、一定の支配を認めることに繋がっていく。その「正しさ」の中では、それに沿わない意見はどれだけ真っ当なものであったとしても、支配者に気に入られなければ潰される始末。「自由」や「真っ当な正しさ」は失われ、強い方の立場や(誤った)正しさばかりが強化されていく。

これでは、目指している「自由」も「未来」も永遠にやって来ない。

インチキな権威性、利己的な力の台頭を防ぐ

無用な支配、ルールに基づかない力の誇示を避ける

誰かが正しい、(お金で置き換えられる)「〇〇を有しているから偉い、偉くない」に対して、何も考えないで飲み込んでしまうと、遅かれ早かれ自由は奪われる。完全な収奪はないにせよ、自由な発言や(本来存在するはずの)平等な関係はいくらか退けられる。

真っ当な意見が通らなくなる、時系列が無茶苦茶な自分勝手の論理を押し付けられる、原理原則を無視した掟破りの行為、約束に基づかないスポイルスポートを平気でやる。法律にも規約にも違反していない、あるいは抵触していても、力のある側、立場の強い側が優位なまま、泣き寝入りする、正しい意見が握りつぶされる。

すでに優位な立場を得た人たちが、自分たちより弱い人たちの台頭を許さず、イノベーションのジレンマにただ怯えてしまって、必要なリスクを取ろうともせず、組織や業界、地域や社会が衰退していく。衰退することで割りを食う、厳しい状況に追い込まれるのは、前から強いスポイルスポートではなく、ルールを守る持たざるままの弱いプレイヤー。強弱は後退することなく、発展に必要な変化も生み出されることなく、代謝も再生も起こらないまま時間だけが過ぎて腐っていく。

これでは、「何者にも冒されない自由」や「何者の手の内にも収まっていない未来」を夢見ることすら不可能になる。

大きな秩序、仕組みの崩壊に繋がるこれらの現象を防ぐには、「一身の独立」、「自立」や「自律」、「自由」を一人でも多くの人が身につける、実践することが有効だと考える。全員が依存や支配から距離を置き、自分の頭で考えることで不必要な宗教性を取り払うことができる。「特定の誰か」や「何かの理念」に力や正しさを集中させるのではなく、周りにいるみんな、全員が正しくて、力を認められている状態に持っていく。そうすることで、「ルールに基づかない支配や力の誇示」を避け、本来あるべき平等性の上で、意見の取り交わし、対等なコミュニケーションができるようになるんじゃないだろうか。

「多数の自由」で「インチキな支配」に対抗する

機会の平等を徹底し、立場や属性(背景)、身分を切り離す

年齢の長幼、年収や役割の上下、先輩後輩といった経験年数の差、ステークホルダー間の関係など。意見を取り交わす場、プロジェクトを進めていく際や、日々のコミュニケーションをするにあたって、持ち出しすぎると良くない要素の数々。弱い立場から出てきた真っ当な意見、根拠や裏打ちがしっかりしている行為であっても、強い立場で握り潰せるようでは、色んな取り組みが真っ当に進んでいかない。

全員の真摯な取り組み、ルールやセオリー、原理原則に則った真っ当な言動が、様々な力によって潰されてしまうようでは、フェアな状態とは言いにくい。社会活動、経済活動に参加している全員が、フェアに動き、全員が公平な基準で審査されるから、自由な民主主義の世の中はみんなの力で発展し、その発展する加速度は大きいものになりうるのに、日本はその利点を手放して久しいように思う。特にフラットさや、自由で闊達なやりとりが重視されるべき小さな規模の経済圏で、スポイルスポートによる発展の阻害が多発してしまっているように思える。これでは、衰退やむなしといったところか。

誰かの考えに身を委ねず、その都度、他者の行為や思考に敬意を持って接し、正しいことは正しいと認める。必要のない力の介入で、可能性や機会の平等に水を差すようなことは避けるようにしないと、すぐ逆方向に引っ張られてしまうだろう。一人一人が、「誰にも操られない」と行動し、「誰かが支配しようとしても、力が分散しているから簡単にはできない」状態を作ることができれば、「同調」や「おもねり」、「ごますり」や「自己保身に繋がるインチキ」に介入される可能性を減らせるんじゃないだろうか。

「誰か」と「意見」は切り離す。アウトプットは同じ基準で評価されるべき

ルールに基づいているなら、許容しにくいリスクや痛みも選べる世の中を目指したい

「支配」や「力関係」が有効なままでは、「誰か」と「意見」は完全に切り離せないだろうし、「誰かの意見」や「誰かが作り出したもの」は、「誰か」に応じて評価が変化しうる。でも、それでは世の中は良くならないし、発展していかない。アウトプット自体はアウトプットそのものの質を問われるべきで、「誰か」の看板や背景で色をつける時点で、敬意が払われていない。

また、階級の固定、強弱の関係が固まっている世の中では、たとえ必要であっても、前例のないリスクフルな取り組みや、イノベーションのジレンマ、破壊の痛みを含んでいる取り組みは、企画した時の100%では実行させてはくれないだろう。よほどワンマンな上司、型破りな責任者に庇護されていなければ、スタンドプレーやトリッキーな動きはあまり容認されない。

本来対等であるべき部分で、根拠のないハンデを持ち込むのはよろしくないし、そのハンデ=スポイルスポートによって、我々は相当厳しい状況に追い込まれてもいる。そういう状況に対して、いい加減に脱出して、真っ当な路線、目指すべき未来へ向かって行きませんか、と。

とはいえ、むちゃくちゃな「自由」や「無秩序」はNG

敬意とおもてなしの精神は、忘れずに

何でもかんでも放り出して、無視して、破壊していけばいいというものではない。それぞれの局面で、エチケットやマナーとして必要になる経緯は無論のこと、たとえ間違っていたとしても誰かが考えていることに対しても、きちんと敬意を払うこと。相手を馬鹿にしてもいけないし、相手が信じていることを無下に扱ってもいけない。

強引に、自分の思考や嗜好に従わせるのではなく、お互いに「どっちがいいか」意見を取り交わした上で、着地点を見つけること。ちゃんとコミュニケーションをして、同調するのではなく、強調すること。調和を模索すること。説得するのではなく、納得できるまで意見交換し、急いで決断しないこと。大事なことは時間をかけて、丁寧に取り組みたい。

そして、誰かが音頭をとらなくても、一人一人がしっかり自立(自律)している状態、各々がリーダーであり、各々がフォロワーである社会を、少しずつ目指していく。アンフェアが入り込む余地のない、スーパーフラットで対等な世の中、発展の可能性に満ちた社会に向かって、歩みだしたいと思っている。

執筆者プロフィール

長谷川雄治(はせがわ・ゆうじ)

物書きな作れるWebコンサルタント。
HTML/CSSのマークアップやWordPressのカスタマイズ案件を経験し、サービス構築やブランディング、サイト設計や戦略プランニング、各種原稿、書類作成まで担う。
独自色の強いコンテンツマーケティングの人という立ち位置も見出だしつつあり、不足しているものを補うべく、日々実践中。

2019.06.16

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