Vol.4 「みんなの物差し」を忘れない

2019.06.27

具体的な手段や個別の話題を広げていく前に、もう少し前提となる話をいくつかに分けて整理しようかと。今回は、現状や未来がどうなるのか、どう考えれば良さそうなのかについて、基本的にどう捉えているかをまとめてみます。

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SNS、個人メディアが可視化してくれる「それぞれの意見」

フェイクも偏った意見も、集めると均される?

インターネットがなかった時代、というよりは個人が情報の発信、編集する手段やツールがなかった時代に比べると、「誰かの意見」を目にする機会が格段に増えました。必ずしもポジティブなもの、そのまま受け入れられるものばかりではなく、嘘やデマ、他人を誹謗中傷する類のネガティブなものや、声の大きな誰かに唆されたり教え込まれたり、自分の立ち位置からしかモノが見えなかったために「偏った意見」になってしまったり、意図的に「編集や演出、脚色を加えた意見」というものもあるでしょう。

生活の一環として、日常的にインターネットやSNSに触れている人が全員ではないので、全ての人が個人メディアを持っていたり、「自分の意見」を発信できているとは言えないので多少限定的になってしまいますが、「何かに対する意見や考え」を言及する人が増えれば増えるほど、ネガティブな意見やポジティブな意見、白い意見や黒い意見、右や左の偏った意見など、色んな意見が集まります。個々人が色んなバックボーンを持った方々で、本当に自由な立場で自由な意見を述べられたとすると、オープンな場に集まった多様な意見を集約すると、全員が受け入れやすい「平均的なみんなの意見」が出来上がるような気がします。

「みんなの意見」が形成されていく過程に参加しなくても、出来上がりつつある「意見」に対して、自分の中にある知識や価値観などと比較して、自分が受け入れやすい「(自分なりの)新しい意見」を発見することもあるでしょう。

インターネットやSNSに触れていない身であっても、最近はテレビや新聞、雑誌の方からインターネットやSNSで目立った意見や情報を取り上げている例も多々あるので、情報の遮断を積極的に行っていない限り、巷に溢れる情報や口コミなどから(発信者に都合のいいバイアスがかかっている)「みんなの意見」に出会うでしょう。そうすると、自分の中に新たな反応(場合によっては新しい意見の形成)も起こります。

思想の自由、発言の自由、議論の自由が認められていれば、最初の発信が誰かの利己的な意見であっても、だんだん「程よい落とし所」、「納まりのいい言い分」に落ち着いていく。「納まりのいい言い分」=「みんなの意見」。「誰か」の要素が薄れて、大勢にとって利己的な意見、大勢が同意した意見、嫌な気持ちになる人が少ない合意へ辿り着ける。その可能性が全くのゼロではない、とは言えるんじゃないでしょうか。

そして、そうやって生まれる「みんなの意見」や全員が納得しやすい共通の「みんなの物差し」は、大体正しい。意見の形成に参加する面々が偏っていれば誤っている可能性が高くなりますが、多様性を大量に含めば含むほど、誤りの可能性は徐々に小さくなっていくでしょう。

「声の大きさ」や「立場」、「無用な権威や伝統」は弱まっていく?

「どんな人でも声を上げられる」と、世界は良くなっていく

インターネットやSNS、個人メディアに問題が全くないとは言いませんし、今も社会や身の回りで進行中の、様々な課題や問題が山積みだとも思います。例えば、『暴力の人類史』(スティーブン・ピンカー著 青土社)や『FACTFULNESS』(ハンス・ロスリング他著 日経BP)が示すように社会が良くなっていたとしても、人は人。動物や獣の要素をゼロにすることはできませんし、「他者よりいい暮らし」や「他者よりいい身分」を手に入れたいと思う気持ち、支配や権力に対する欲も否定できません。

ただ、何もなかった時代とは違い、蹂躙されようとしている立場の人が声を上げられない、助けを求められない時代ではなくなってきている、というのも事実ではないでしょうか。決して強くない立場の人であっても、声の大きい人たちのプレッシャーをかわして、世の中に対して告発する、現状を報せることができる。

そういった自由のない国や検閲のある国、言論や思想の弾圧、強制がある国やコミュニティに属している場合、必ずしもその恩恵を受けられるとは言い難いですが、その外側にいる人たちの目や耳、あるいはより直接的な協力、介入によって「おかしいこと」や「無視できないこと」、「みんなで考えなきゃいけないこと」が発覚する例も、丸っきりないとは言えません。

これまでは黙殺や隠蔽、黙認、あるいは見過ごされてきたかもしれない「不当な扱い」や、「されたら嫌なこと」、なぜか大切に守られてきた変な伝統やルール、不文律など。特定の領域や密室で行われてきた数々の「これっておかしいよね」が、露呈、あるいは漏洩する。

あるいは、マスメディアや大手企業といった、力の強い側や支配層にいる側が押し通したい意見や、信じて欲しい観念に対しても、必ずしも意に沿わない意見、リアクションが起こる、隠しきれなくなる。

SNSや個人メディアが、「みんなの意見」や「みんなの物差し」を形成し、新たな意見や新たな世にふさわしい価値観の創出を促す。更にその場が「天網」と化して、世の中から、誰かにとって都合のいい密室や閉じた領域を無効化していく。「みんなの意見」や「みんなの物差し」に沿わないもの、お天道様に顔向けできない行為や道徳に反する行為は必ず明らかにされてしまう。

その結果、過剰な自粛や弱さから来るマウンティング、変なハラスメントも生み出しながらも、世の中をより良いもの、「みんなが受け入れやすいもの」、「どんな人でも暮らしやすい世の中」に変えつつあるような気がします。

世界はフラット化する、というよりは大まかな価値基準の統一化が起こり、扉を閉じることができなくなっているというか、特定の誰かや価値観を特別扱いする線を引きにくくなっている、効果が薄くなってきている。その傾向は、今後も弱まることなくこのまま進んでいくんじゃないでしょうか。

特別な世界、「自分たちの物差し」もなくならない

「分かっている人たち」のための濃厚な奥行きの深い世界、特例の世界も必要

「みんなの意見」や「みんなの物差し」があったとして、万人が受け入れやすく、万人が不満を抱かない世の中になったとしても、それだけでは詰まらないし、多様性や文化、文脈の差異がなくなってしまって、無個性で面白みが全くない世界がやって来るでしょう。テレビの世界やマスメディア、大衆向けの商品やサービスに顕著ですが、コンプライアンスの順守や自粛をし過ぎてしまったために、今の状況がもたらされていると言っていいでしょう。

フラットにする力、シンプルにする力から逃れられないとしても、放り出してはいけないのが、「違い」を守ること。万人には受け入れられないものであったり、違う宗教や宗派、異なる文化、時代ではネガティブな反応をされるものであっても、「郷に行っては郷に従え」。状況やTPOによっては、みんなの意見や物差しに背を向けて、優先して守るべき価値基準、物差しというのも間違いなく存在します。

これを、「フラット化するのに邪魔だから」と蹂躙する、取り潰すのは、単なる暴力。「なぜ、そうしているのか」を知ろうとしなかったり、「なぜ、そうやっているのか」の経緯を無視して、自分が信じている価値基準だけで、「ああしろ、こうしろ」というのは、よろしくありません。

また「自分たちの世界」や「我々の文化」について説明してくれている、向こうから理解を求めようとしているのにも関わらず、それらを無視して「自粛」を求める、「不快に思う我々を尊重しろ」と要求するのも、筋違い。

本来は「無言で認めろ」を容認するというか、そんな上から目線の反応をするのもおかしな話なんですが、フラット化する世界の中で、お互いにお互いを尊重し合い、気持ちよく暮らしていく上では、向こうがきちんと説明してくれるのであれば、その中身がたとえ納得できるものでなかったとしても、「そうなんですね」と違いを認める方がベターでしょう。

商品やサービス、コンテンツ作りの場合も、全員が受け入れられないものであったとしても、「特定の誰かに向けて、こういう意図がある」と説明されている場合や、「こういう説明を理解した方、納得された方にのみ提供する」という場合があってもいいと思います。そうでなければ、無個性でつまらない万人受けする底の浅い商品、ど定番しか取り扱われていないサービス、誰にも響かない何かの焼き直しのようなコンテンツ、ばかりになってしまうでしょう。

今の世の中に必要なのは、大小様々、強弱様々な「違い」をしっかり作ること。その違いをしっかり守ること、守り続けること。みんなが受け入れられる、みんなが理解できるような、自粛の果てに出来上がる「結果の平等」を求め過ぎてしまえば、ノッペリとした社会にしかなりません。

文化や社会的な多様性を諦めてしまえば、やがてその業界や文化、社会生活といったものは滅んでいくでしょう。遺伝子的な多様性を求めた歴史を鑑みれば、同一性を求めすぎる愚かさにすぐ気がつきそうなものですが……。

「特別な線の内側」は強化するけど、「みんなの物差し」も無視しない

内輪受け、内輪の理解に甘えない

特定の業種や職種、手に職をつけるために必要な修行の世界や学校の世界など、部分部分で「みんなの物差し」から外れなきゃいけない部分、なぜそうするかを理解した上で「特別な事情」を抱えなきゃいけない、「線の内側」、「特別な世界」はどうしてもあるでしょう。場合によっては、「線の内側」で個々の違いを強化するために、特別扱いや特例も強化していくこともあるでしょう。特定の何かを伸ばすには必要なことだし、イノベーションや進歩、歴史的な偉業の達成には欠かせないとも思います。

ただ、「我々の物差し」や価値基準が有効な場合、必要な場合であっても、特別な世界が接している「みんなの世界」や「みんなの物差し」のことも、忘れてはいけません。「線の内側」では通用する考え方や、内輪では受け入れてもらえる価値基準であっても、外側の目で見れば通用しない、価値を認められない場合もあり得るからです。

特にこの国の場合、悪い意味で「学校行事」や「どこそこで教わったこと」が価値基準になっていたり、ごますりや太鼓持ち的な人物によって、本来の価値にふさわしくない評価や評判を得た商品、サービスというのも、世の中に蔓延しています。大人が「子供はこう受け取るだろう」と世に送り出した「子供騙し」は大抵、作った大人や関わった大人しか喜ばせることができず、結果的に鳴かず飛ばずで終わることもよくあります。

強い立場を得た人が、「こうなって欲しい」と思っていても、「みんなの物差し」や受け取る側の「我々の物差し」で良い反応が返らない事例も多く、強引に「世の中の意見」や「偽りの評判」を盛ろうと思っても、上手くいかないケースというのも多々あるでしょう。

もう、「発信する側に都合よく受け取ってもらえる」世の中ではなくなっています。日本の場合、顔が見えない場合、世間一般は割と前からそういう反応を返していたかと思いますが、今後は顔が見えていたとしても、価値判断や事業者の姿勢というのは厳しく判定される世の中になっていく、あるいはすでになっていると予測します。

複雑で予測不可能だから、シンプルにいく

「絶対的に良いもの」は響く。やりきったもの、振り切っているものも届く

「みんなの物差し」=「人としてどうなのか」。これに沿うもの、どうあっても価値のあるもの、手間暇をかけてやりきったもの、磨き上げたものであれば、どんな世の中になっても受け入れられるでしょう。

「ちょっと変わったもの」じゃなくて、「とことん変わったもの」とか、「思いっきり違いが伝わるもの」も、どんなに複雑な世の中になったとしても、受け入れられる可能性が高いと思います。

要するに、インチキや手練手管、釣り合わない評価、時代に迎合したやり方というのは、長続きしない、ということです。絶対的に価値のあるもの、間違いなく力を持っているものの方が、今までもこれからも変わらぬ評価、立場を確保し続ける。複雑な世の中、多様な世の中だからこそ、「レベルを上げて物理で殴る」、それに近しいやり方がシンプルに強い。

お天道様に恥じないこと、ぬるま湯に甘んじないこと、厳しい世界に正面からぶつかっていく、立ち向かっていくこと。シンプルに統一されていく「みんなの意見」や「みんなの物差し」に対して、磨き上げた「我々の物差し」や「自分の価値基準、世界観」でぶつかっていく。これが、今後も有効かつ最も着実な考え方、構え方なんじゃないでしょうか……。

執筆者プロフィール

長谷川雄治(はせがわ・ゆうじ)

物書きな作れるWebコンサルタント。
HTML/CSSのマークアップやWordPressのカスタマイズ案件を経験し、サービス構築やブランディング、サイト設計や戦略プランニング、各種原稿、書類作成まで担う。
独自色の強いコンテンツマーケティングの人という立ち位置も見出だしつつあり、不足しているものを補うべく、日々実践中。

2019.06.27

2019.06.27

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