Vol.8 社会と遊びと遊びの崩壊。『ホモ・ルーデンス』の我流解釈(前編)

2019.07.26

今後の話を整理しやすくするため、ここでもう一回、思考の前提となる考え方についてまとめておく。下敷きの一つとなっている、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』を参考に、「社会」と「遊び」の関係、遊びの崩壊について、自分なりの解釈を書いてみる。(前編)

この記事は 約 9 分で読めます。

,

ホイジンガの「遊び」は非常に広い

スポーツも、ギャンブルも、創作も、政治も、戦争も。「遊び」というカッコに入れた

19世紀生まれの、オランダの歴史学者ヨハン・ホイジンガが送り出した名著『ホモ・ルーデンス』(高橋秀夫訳 中公文庫)。彼は、それまでの独自の思考をを発展させ、「遊戯が人間活動の本質であり,文化を生み出す根源だとする人間観。遊戯は生活維持を求める生物学的活動を超え、生活に意味を与えるものであると主張される」(Wikipedia 「ヨハン・ホイジンガ」https://ja.wikipedia.org/wiki/ヨハン・ホイジンガより引用)、遊戯人の意味を持つ「ホモ・ルーデンス」を提唱した。

「たかが遊び」ではあるが、『ホモ・ルーデンス』を紐解けば、ホイジンガが「遊び」に込めた想いや、「遊び」に見出したものの大きさや重さ、価値というのがすぐに分かるだろう。「遊び」にはどんな種類があるのかを丁寧に拾い上げ、人間の様々な活動を、「遊び」という観点から捉え直し、彼なりの考えを構築、あるいは読者に向けて展開してくれている。

中には、(中世や古代の)戦争を遊びとして捉えてみたり、政治的な活動や経済的な活動も遊びとしてみたり、宗教的な儀式や舞踊、武道や狩猟も、手遊びやお飯事の延長線上に置いてみたりと、普通の感覚では簡単に飲み込みにくいものまで、「遊び」として一括りにしてしまっている。あまりの広範さに、『ホモ・ルーデンス』の目次を見るだけで驚いてしまう人もいるのではないだろうか……。

と、下手な読書感想文みたいな書き出しで、多少知った風に書いている自分自身も、『ホモ・ルーデンス』をちゃんと読んでいるか、理解できているかと言われると怪しい。その上、独自に「ああじゃないか」、「こうじゃないか」と、やや強引にこじつけている部分も多々出てくる。ここからは基本的に、『ホモ・ルーデンス』を読んだ人か、読んでいないけど考えなり、解説なりを前向きに聞いてやろうという人に向けて書いていくので、予めご了承ください。

まず、「遊びとは何か」を挙げてみよう。

遊びとは、ホンモノじゃないバーチャルなもの

シミュレーションの要素、学習的な要素を持ち合わせている

スポーツやボードゲームが顕著だけれども、現実の要素をシンボルやトークンに置き換え、自分たちで共通のルールや得点条件、勝敗条件を共有して、「その中の限られた世界」(=架空や仮想の世界)の上で行う遊びがある。各人の役割を仮に設定し、お芝居めいたやりとりを楽しむおママゴトも、現実や本物とは少し違う要素を含んでいる。

格闘技や武道でルール無用になれば、「試合」から「本物の殺し合い(や殴り合い)」になってしまう。試合として条件を満たす「空間」や「時間」を区切り、許されているルールを設定し、区切られた世界の外側に一歩出れば、別のルール、法律が適用される。

また、「遊びでやってみよう」という言葉には、「本番じゃない」というニュアンスや「試しにやってみる」という意味合いも込められていて、動きの確認だったり、道具の試運転だったり、練習やシミュレーションの要素を多分に含んでいる。

「遊び」の効用の一部は、「(特に物語の)読書」と似ている。現実ではなく、シミュレーションとして体験する、学習する。あくまでも安全な状態を保った上で、特定の状況を抜き出して練習する。「遊び」として繰り返しておくことで、本番や遊びでない状況で、培った能力や技術を活用することができる。

常に予断を許さない状況、生命や財産を持ち出さなきゃいけない現実の場では、学べるものも、習得できるものも限られてしまうが、「遊び」として、バーチャルなもの、架空のものとしてシミュレーションができれば、限られたリソースでも多くのことを学べる、身につけられる。つまり、遊びがない状況に比べれば長く生きられる可能性がある、ということ。

また、「特定の状況」を現実よりは簡単に取り出すことができるため、現実ではそれほど直面することがない状況も、繰り返し体験することが可能になる。どれほど危機的な状況であっても、「遊び」なら現実でもホンモノでもないから、その時の経験や思考を持ち帰って学習することができる。これが、「遊び」の一つのメリット、特徴である。

遊びとは、人工的な行為。造りもの

自然物の道具を使っていても、行為は「アタマ」が作っている

道具をあまり使わない「鬼ごっこ」や「かくれんぼ」も、追いかける行為や捜索の行為、そこにまつわるルールはアタマで考えて作っている。自然にあったものを使っていたボードゲームやスポーツは、遊びが均質化するように、あるいは遊びの質が高まるように、道具を洗練させていって、人工物の度合いを高めてきた。

天然由来の顔料を用いる絵画、自身の声帯を使った音楽、肉体表現の舞踊も、そこで何を表現するか、何を追求しているか、何が表現されているかを受け止めるのは、アタマであり、五感であり、それらを統合する意識である。理解を超えた何かを受け取ることがあったとしても、言語化できるか否かの問題、あるいは顕在意識で処理できるものかどうかの問題であり、「心」や「感覚」に主役の座を譲ったとしても、やはり「脳」がなければ、存在しないも同然になるだろう。

「遊び」として認識する、あるいは「遊び」であるとするには、多少なりとも「思考」が動員されなければ難しい。つまり、言葉やイメージ、感覚を介さなければ、「遊び」を成り立たせるには難しい。感覚器官と認知機能、それらを統合する脳が欠かせない。

もう少し言い換えれば、多少なりとも「脳化」していないと「遊び」とは言いにくい、とも言える。自然のまま、無加工のまま、無作為のまま、ありのままでは、「遊び」ができない。観測者という存在、あるいは行為者という存在。それらを認識する意識はその場にないと、「遊び」にはしにくい。これも、「遊び」の特徴。

人間以外の「遊び」も、例えば「動物のじゃれあい」や「求愛行動」も、行為として「わざと」やる、あるいは「自然のままとは違う作為」が働かないと成り立たない側面があるように思うので、「人工的」と表現したが、「意識的」や「脳的」と置き換えてもいいかもしれない。

遊びとは、「参加者」と「共通認識」が必要

全員がバラバラでは成り立たない。「外側の世界」も欠かせない

遊びとしては物足りないが、「じゃんけん」で遊ぶとして、「グー・チョキ・パー」の3すくみを全員が違う認識、あるいは一人だけ違うルールを持ち込んでいたとしたら、途端に成り立たなくなる。「出すタイミング」という公平性に欠けた場合も、じゃんけんは成立しにくい。

もう少し複雑な、例えばトランプの「大富豪」。様々なローカルルールが存在するこのゲームも、全員が好き好きに「自分の大富豪」で遊んでしまえば、その「場」は成り立ちにくくなる。そのゲームに参加している人の間で、どんなローカルルールを適用するかを確かめてからプレイする方が無難、ルールの隙をついた手を出したり、それで勝ちぬけたりしてしまえば、リアルファイトにつながる可能性もゼロではない。

何らかのスポーツや、おママゴト、創作活動であっても、抑えておくべきルール、共通認識は存在している。予めルールを明示される場合もあるし、ルールを学んだ上でプレイする場合もある。ルールを破れる、例えばフィールドの外に出てしまう、試合時間を守らないでプレイしてしまう、勝敗条件、得点条件を理解しない、守らないで参加してしまえば、その遊びは途端に崩壊する。

遊びを崩壊させてしまう存在を、ホイジンガは「掟破り」(スポイルスポート)と読んだ。スポイルスポートが一人いれば、遊びは崩壊する。また、スポイルスポートほどでなくても、正規の手続きをすり抜けるインチキやイカサマが得をしやすい状況、ルールを守っている多数派の参加者が損をする状況というのも、「遊び」を崩壊させやすい。

「遊び」を差配する立場にある、審判の立場にあるのなら、スポイルスポートはその場から排除するべきだし、インチキやイカサマに対しては、そうする方がコスト高になる、メリットがない状況を作っておかないと、遊びに参加している正規の多数派が去ってしまう。真っ当にルールを守る、まともに遊びを成り立たせる方が面白い、楽しい状況を作れるか否かは、なんらかの「遊び」にとって、非常に重要と言える。

また、「参加者以外」や「遊びの外側」も存在していないと、「架空の世界」が現実になってしまう。誰が参加者かもわからなくなってしまうと、ルールを守っている正規の参加者、どこまでが「その遊び」なのかも分からなくなる。つまり、「遊び」の外側、遊びに参加していない第三者、遊びを見ている観戦者もいないと、「遊び」は成り立ちにくい。

「遊び」は実在しない、架空のもの、目に見えない「カタチないもの」だから、簡単に壊れるし、「遊び」として成立させるのも(参加者の)努力が要る。遊ぶ本人、遊び相手となる相手、場合によっては遊びの審判、ゲームマスター、遊びの外側にいる第三者も必要としている、のが「遊び」と言えるのではないだろうか。

遊びとは、自分のためにやるもの

誰かに要求されてやるものではない。自分のため、自分の喜びのためにやるもの

「娯楽」と括れない「苦しみ」を伴う「遊び」もゼロではないが、誰かに要求されて提供するものではない。また、何かに奉仕するためにやるもの、でもない。純粋に、自分がやりたいと思うから手をつけるもの、自分や参加者が楽しいと思うためにやるもの、その楽しみをより大きく、より多くの参加者と分け合うためにやるもの、が「遊び」である。

学ぶためとか、ルールだなんだとか、脳がどうかとかを脇に置いておいて、まずは自分が楽しいこと、自分のために時間や物を使うこと。そこが遊びの原点であることは揺るがない。議論的には余談かもしれないが、無視するのも可笑しな話なので、ここで簡単に触れておく。

自分のためという観点から言えば、経済性や世間体とは多少切り離された行為、純粋な行為、自己との対話や自分らしさの追求(の一環)、という言い方もできる。これも、「遊び」の大事な要素だろう。

「遊び」の持つ意味、機能について、私の言い分、私なりの解釈はある程度ブチまけられたように思うが、恐らく「それでなんなん?」とお思いだろう。タイトルの「社会」が全く出てきていないので、そこと「遊び」の関係を次の記事で書いてみよう。ということで、後編へ続く。

執筆者プロフィール

長谷川雄治(はせがわ・ゆうじ)

物書きな作れるWebコンサルタント。
HTML/CSSのマークアップやWordPressのカスタマイズ案件を経験し、サービス構築やブランディング、サイト設計や戦略プランニング、各種原稿、書類作成まで担う。
独自色の強いコンテンツマーケティングの人という立ち位置も見出だしつつあり、不足しているものを補うべく、日々実践中。

2019.07.26

2019.07.27

Loading...
Facebook Messenger for Wordpress