Vol.9 社会と遊びと遊びの崩壊。『ホモ・ルーデンス』の我流解釈(後編)

2019.07.27

今後の話を整理しやすくするため、ここでもう一回、思考の前提となる考え方についてまとめておく。下敷きの一つとなっている、ホイジンガの『ホモ・ルーデンス』を参考に、「社会」と「遊び」の関係、遊びの崩壊について、自分なりの解釈を書いてみる。(後編)

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「遊び」は人が造るカタチない物

ルールや区切りが重要な、高度なフィクション

前編で『ホモ・ルーデンス』を取り上げて、自己の解釈を多めにざっと考えを展開してみたが、それらをさらにぎゅっと縮めると上のようになる。スポーツを取り上げてみても、バットやグローブは実在していても「野球」そのものは存在しない。サッカーボールやスパイク、ゴールは物体があっても、「サッカー」そのものは質量がない。サッカーをやっている人、野球を好きな人、そういった文化や産業も存在しているが、中心になる「遊び」そのものは、実在しない。

だからと言って、存在しないとも言い切れない。身体でいえば、「脳」や「心臓」、その他臓器や筋肉は解剖すれば該当する部位を見つけられるが、「私」や「意識」を触ることは難しい。だからと言って、存在しないのかというと、「形はないけど間違いなくある」もしくは「見えないけど、あると思っておいた方が都合がいい」。つまり、見えないけどある = コンテキスト、UXや文化、伝統、理念と似た類のものが「遊び」であると言える。

具体的に形がないからこそ、簡単には壊されないし、簡単に陳腐化、腐敗することもない。共有する人や関係する人口が多ければ多いほど、着実に未来へ語り継がれていくという強みがある。「意識」も、もしなんらかの臓器として存在していた場合、新陳代謝で部品が置き換えられてしまえば、変質したり消滅してしまったりするかもしれない。あくまでも仮想的に、物に完全には依存しない形で存在しているからこそ、しなやかな強さ、レジリエンスを備えているとも言える。

その一方で、形がないからこその脆さもある。その辺りの詳しい話は別の記事でも触れる予定だけれども、そのポイントの一つが「スポイルスポート」。ルールや区切りを無視する、ぶっ壊す、あるいは真っ当にルールを守ることを不利にする、無価値にするインチキやイカサマを持ち込めば、「遊び」や「文化」は意外と簡単に崩れ去る。

「遊び」を成立させるルールや文化を守る、正当な参加者が多数派であるうち、力を持つうちは大丈夫だが、逆転されれば目も当てられない。マウントを取りたいだけのプレイヤー、楽をして勝ちたいだけのプレイヤー、その遊びや文化を破壊したい人をいかに遠ざけるか、いかに対策を打っていくかが一つのポイントになるだろう。

そして、「遊び」に関する重要なポイントはもう一つ。それは、「社会性」じゃないかと考えている。

「遊び」は「脳」と「遊び以外」の中にある。

脳を外に出したもの = 都市。安全に加工された造りもの

「遊び」で重要なのは、「造りもの」であること。あるいはバーチャル、シミュレーションであること。生命や財産に、生きていけなくなるような致命的な傷を負わない状態、過度の危険性に晒されないことが、「遊び」には大切な前提となっている。その上で、「一定のルール」を守りさえすれば、「安全な架空の世界」で遊んでいられる。これは、人工的な場所でなければ難しい。

遊びに参加する人間、遊びを提供する、コントロールする人間が理解できている状況下、安全に制御できる状況下、ある程度予想可能な出来事しか起こらないようにしないと、「遊び」にはなりにくい。それを、自然相手、あるいは野生動物達相手に要求できるかどうか。恐らく、不可能ではないだろうか。

つまり、人が把握しやすいもの、頭で理解しやすい脳の中にあるものを外に出した場所や世界、すなわち十分に「脳化」が進んだ場所、勧められた場所でないと、十分な「遊び」を構築する、高度な「遊び」や文化を築き上げるのは難しい、ということになってくる。カタチのないもの、人が生み出した造りもの、フィクションを維持するには、都市や社会が必要になってくる。

また、「遊び」は「遊び以外」がないと遊びかどうかが分からない。つまり、「限られた世界の外側」が必要だし、「参加者以外」が必要になってくる。原始的な遊びや、素朴な遊びならその限りではないが、多少高度なものや、プレイヤーとして追求する余地を持った遊びになってくると、「自分」と「(対戦)相手」だけでは成立、制御が難しく、プレイヤー以外の審判やゲームマスター、観客といった第三者も必要となってくる。

つまり「遊び」というのは、その内側にも外側にも、「脳」的な要素、脳化された社会、人の手で作ったもの、目に見えるものも見えないものも含んでいる、とは言えないだろうか。「遊び」があって「社会」があるのか、「社会」があるから「遊び」があるのか。鶏と卵ほどややこしい話ではないだろうが、こういう場合の答えは大抵、「どっちも(同時に)必要」。人が社会を構築する動物である以上、遊ぶのは必然、ぐらいは言ってもいい気がする。

社会も国家も経済も。人が造ったカタチないもの

「遊び」と同じ要素、脆さも持っている?

何でもかんでも強引にシンプルにする、共通項を見出して丸めてしまうのは良くないと思いつつ、「遊び」の外側に広がっているものにも、「遊び」的な観点で見ることができないか、考えてしまう。

ものすごく単純に言ってしまうと、「社会」と言われるものも、「国家」と言われる制度も、「経済」というデータも、実際のところは実在しない、見えないもの。仮想的な存在、一種のフィクション、虚構とも言える。具体的な要素は実在しているものの、全体としては関与している参加者同士の役割分担や法律あるいは道徳というルールの遵守、あるいは一定の決まりに則った数字の積み重ね、数え上げた結果グラフとしてカタチが見えてくる、「そこにありそうなもの」に過ぎない。

ただ、「それがある」と思った方が、多少なりとも参加している人たちにとってメリットが大きい(はず)。だから、「社会(あるいは都市)」や「国家」、「経済」を維持しようとするし、それを拡大、向上しようとする人たちもいる。ただし、カタチのないものだから、参加している面々のルール遵守が肝になってくる。

ルールを守った方がいい、楽しいことを維持するには正々堂々やる方がいい。それを刷り込む、学んでいくためにも、都市や社会にとって「遊び」は効用があるし、「遊び」を通じて、社会性やルールを守ることの意義、都市(=脳化された場所)に生きる良さを経験していく。ルール違反、インチキやイカサマをした場合にペナルティがあることも、実際の体験や生活だけでなく、遊びや読書といったシミュレーションからも学んでいく。

もし、スポイルスポートが多数派になれば社会秩序や経済活動は破綻するし、インチキやイカサマに十分なペナルティが課されない、真っ当にルールを守るより利点がある、手軽に他者より優位になれるのなら、きちんとルールを守る人が減っていってしまう。ルールや決まり事は「それが守られると大勢にメリットがある」のだけど、瓦解すると有名無実化してしまう。弱い人でも参入しやすく、まともに努力すれば報われやすいようにできている「真っ当なルール」が効力を失えば、遅かれ早かれ、社会は衰退へ向かうだろう。

今の世の中、その辺りはどうなのか。「遊び」という切り口、観点から、少々強引に物差しを当ててみたら? そこにちょっとだけ思いを巡らせてみようかなぁ、と。

地域も社会も働き方も経済も。行き詰まり感がある

「今の世の中」や「今の社会」という遊び、フィクションを成り立たせる前提が崩れつつある?

経済的な問題、地域や社会秩序の問題、行政や法律、政治の問題。あるいは、日々の労働や職場の問題、資本家と労働者の問題、人口や教育、報道や情報に関する問題など。本当の実態は異なる可能性もあるが、巷に溢れるイメージからすると、日本の将来が極めて明るいと思っている方は少ないんじゃないだろうか。問題が山積みだとは言わないものの、大なり小なりの課題、解決すべき社会問題が一つや二つは間違いなくある。

頭のいい方々が提唱した取り決め、理論や考え方を元に仕組みや流れを構築してみて、百数十年。その「遊び(システムや仕組み)」や「フィクション」に真面目に参加する人もいれば、インチキをして周りより抜きん出ようとする人もいるし、与えられたものにしがみついて自分以外を攻撃する人もいる。守るべきルールや考え方を無視して、自分の好きなようにやる方々も一定数存在している。作り上げた方がいいシステム、参加者全員で守ればメリットが大きい仕組みであっても、実際は、必ずしもポジティブな状態とは言えなくなっている、ように思う。

『国家はなぜ衰退するのか』(ダロン・アセモグル/ジェイムズ・A・ロビンソン著 早川書房)やリズ・ワイズマンの著書『メンバーの才能を開花させる技法』(海と月社)などから、半ば強引に共通項を見出して無理やりシンプルにすると、衰退する国家や(会社などの)組織は、「権力の寡占」、「代謝の低下(=下克上、世代交代の機能不全)」、「ダブルスタンダードなルールの運用」という特徴が見られる。

古いものや力を持っている人が固定化され、新しく生まれてくる人やもの、考え方が阻害される、チャンスを与えられない、あるいは育てられる余地がなくなると、どんなに大きなもの、力を持っていたものであっても滅んでいく。考え方の老化や行動の硬直化、交代や交換が不活性化してしまうのは、一人の人間も、人間が集まって出来上がるものも、大して変わらない、とも言える。

そして、権力の寡占、固定化をより強くするのが、「ダブルスタンダードなルールの運用」。先に強くなったもの、最初に勝ち抜けしたものに優位に働くよう、同じ「遊び」で起用されるべきルール、守られるべき価値観や考え方が都合よく捻じ曲げられ、恣意的な運用をされ始めてしまうと、「遊び」として成り立たなくなってしまう。

スポーツでも遊びでも、「強い人」は存在するが、「勝負は時の運」という言葉や「番狂わせ」、「ジャイアントキリング」や「大金星」という言葉があるように、ハンデの付け方や遊び方によって、弱い人(あるいは「挑戦者」)が勝利を収める可能性は存在している。ただし、審判やルール運用が公平でなければ、弱い方、挑戦する方は逆転の可能性を諦める他なくなってしまう。

強い人によるインチキが横行したら、今度はズル賢い人によるイカサマやインチキで、「守らないと上手く機能しない」部分の隙をついて、払うべきコストを払わず楽していいポジションにつける、コバンザメや寄生種のような生き方、暮らし方を手に入れる人も出てくる。そうすると、真面目に参加しようとする人、これからルールを守ろうとする新参者にとっては、ますます厳しい状況に作り変えられてしまう。

自己保身のために、恣意的なルール運用を施す。あるいはイノベーションの芽を摘み、変化の兆しをことごとく潰してしまう。真っ当にやれば追い落とされるから、真っ当にやれないよう与えるべきもの、払うべきもの、守るべきルールや価値観から逸脱する。それでは、色んな制度や考え方が崩壊していくのも、やむなしとしか言えないんじゃないだろうか。

みんなで維持すべきもの、見えないものが崩壊しつつある

守ったほうがいいルールを明確に周知し、インチキをコスト高にする他ない

意外と簡単に崩壊する「目に見えないもの」や「カタチないもの」。「遊び」に置き換えて考えれば、守るべきルールを明らかにして周知徹底する、維持すべき「架空の世界」や目指すべき「理想の秩序」を保つように、参加したい人たち、あるいは既に参加している人たちで協力して、どうすべきかを考え、考えた結果を行動に落とし込んでいく、実行していく他ない。

しかしながら、今はどうやら『教科書が読めない子どもたち』も存在するようだし、書いてあるのに文字を読めない、あるいは書いてあることが表面通りにしか理解できない人たちも増えてきているようなので、中々これを実行していくことも難しい。それに加えて、反知性主義というか、科学的なこと、理論的なことをきちんと見ない、自分の常識の範疇でしかものを考えない、情報に触れない方々も一定数存在している。こうなってくると、ルールの運用どころか、ルールの周知、それをなぜ守るのか、なぜ守ったほうがいいのかということすら共通認識を持ちにくい。

対策すべき相手が子供だけならまだしも、多くの大人、特に中高年やその上の層まで「そうなっている」のだから、現状をなんとかするのは、本当に気の遠くなるようなお話。ただ、やっていかないと着実に終わるだろうから、いつかは必ずやらなきゃいけないし、今すぐやらなきゃいけないことでもある。嫌がらず、真正面から受け止める他ない。

理想は「隙のある遊び」

ガチガチにルールを守るだけ、工夫を許さない世の中にもなってはいけない

「社会」や「経済」は、厳密には「遊び」ではないし、遊びのようにその都度、ルールや決まり事を明示的に示してくれる、教えてくれるものでもない。実際、生まれた瞬間や進学の瞬間、あるいは社会に出たタイミングで、今の世の中で運用されてる仕組みや、どんな思想、哲学に基づいて世の中が出来上がっているか、日々の生活が営まれているのかを、丁寧に解説された覚えもないし、それに賛同して参加した記憶もない。

すでに権力を有している側、支配者層にいる人たちが、意図的に隠している、伝えない方が優位だからそうしている可能性もゼロではないが、教えられなかったから学ばない、というのもおかしな話。また、完璧に守っている、社会を良くするために理想的な毎日を送っている、という人にもあまり出会わないのだから、何が正解で、どのルールを守るべきかも実は定まっていないのだろう。

そして、これから何かを作っていくのであれば、「遊び」や「バーチャルの一環」であったとしても、新しい遊びやルールを斜めから見た解釈、新しい組み合わせといった発想、イノベーションのきっかけ、変化の余地というのは残しておきたいし、守るようにしたい。それが一時的にルール違反、秩序の対する挑戦に見えていたとしても、理知的に話し合い、何がどう新しくて、どんなふうに面白いかを理解する姿勢、面白がるココロは持つようにしたい。

現代資本主義という「遊び」、民主主義の日本という「遊び」

一種のフィクション、「遊び」、「大きな仕組み」がダメになりつつある

余談を挟んでしまったので、改めて結論。ダメになりつつある要因が、何かしらの掟破り(スポイルスポート)なのか、ルール違反なのか、インチキやイカサマをする連中の増加なのか、真面目に参加する人の減少なのか。それは分からない。色んな要素が絡まり合った、複合的な問題の可能性も十分ある。

実態や実情、実際のデータはそれほど悪くない可能性や、明るい兆しがある可能性もゼロではないが、崩壊しつつある、あるいは今まで通りの維持が難しくなりつつあるもの、も着実にある。カタチがないから、見える物として存在していないから、意外と簡単に消え去っていく。そこで今までの体制維持だったり、みんなで頑張らないように頑張ろうというのも、多分違うかな。

古いものを更新する、刷新する。新しい「遊び」を考えて提唱する、参加者を少しずつ増やしていく。そういう方向で、「次」を見出す、ひねり出す、「当たり前に存在するもの」へ育てていく。そういうやり方、構え方をするのが健全なんじゃないかな。

ダメになりつつあるものが着実に存在している、崩壊しつつある概念、目に見えないもの(文化や空気)がある。考え方の崩壊、従来の秩序の限界がある、それを見ているというのを、きちんと分かっておく、向き直っておく。何をやるにせよ、何を考えるにせよ、まずはそこからじゃない?

執筆者プロフィール

長谷川雄治(はせがわ・ゆうじ)

物書きな作れるWebコンサルタント。
HTML/CSSのマークアップやWordPressのカスタマイズ案件を経験し、サービス構築やブランディング、サイト設計や戦略プランニング、各種原稿、書類作成まで担う。
独自色の強いコンテンツマーケティングの人という立ち位置も見出だしつつあり、不足しているものを補うべく、日々実践中。

2019.07.27

2019.07.27

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