Vol.11 巨大な「カタチないもの」は覆る

2019.07.31

カタチのないもの、見えないもの、ルールや流れの有用性、重要性に触れたところで、違う方向に振れそうな話題をまとめてみる。クルツィオ・マラパルテの『クーデターの技術』などを参考に、自分の意見を好き勝手に書いてみよう。

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社会も経済も文化も学問も。カタチないものの積み重ね

カタチがない弱さと、集合体という脆さを持っている

習慣や流れ、身近なルールというのは、カタチがない、見えないのに意外な力を持っている。川を流れる水のように、あるいは大気を満たす空気のように、ほぼ不可分な圧倒的な量で自分たちの周りを覆っている。目に見えない、明確な形を持っていないからといって存在していないのではなく、着実に存在、それも遍在していると言える。

もう少し人間的な要素、社会的なものにおいても、同様のことが言えるだろう。夫婦や親子、家庭といった枠組みが存在し、その中で運用される不文律、あるいは明示的に示されたルールや道徳が存在するし、その集合体である地域社会、学校や会社といった集団の中にも秩序を守るためのルールや規則が存在する。

「何らかの交換」という点では、経済的な活動も確かに存在している。何と交換するか、誰と交換するか。信用という概念を活用した、目に見えない交換めいたこと、掛け商売や手形といったある種の約束、身近な契約というのも間違いなく存在している。

どんな文化に触れているか、どんな学問を学んでいるか。目の前にある具体的なものは存在しているし、それを少し発展させた論理や抽象化したメタ的なものも存在しているといっていい。

デザインされた「カタチないもの」に囲まれ、「カタチないもの」に促され、それらの裏側にあるもの、その根底にある「哲学」や「美学」、巧妙に織り込まれた「誰かの意向や考え」に異論を抱くことなく従い、「(昔の)エラい人」が定めた目標、集団として向かうべき方向、実現すべき社会へ向けて、日々を過ごしている。何気ない毎日も、見えないとはいえ、確かに存在しているものの一つだろう。

現代資本主義や民主主義国家、今の経済や社会体制、社会秩序というのは、こういった膨大な「見えないもの」や「カタチないもの」を積み重ね、かき集めた上に成り立っている。立ち返るべき思想をまとめた言葉はあっても、中身は「身近なカタチないもの」より、さらに曖昧なもの。実態としては、思考上の産物、リアルな材料を土台に立ち上がってくるフィクションや虚構と大して変わらない。

カタチがないと何が弱いのか。これまでに何度か触れて繰り返しになるが、具体的に「これ」という手触り、質感、モノとして存在していないことが、最大の弱点。「モノじゃない」から、風化や劣化、腐敗といったものとは無縁だけれども、「モノ」として存在していないから、なくなるとなると、一瞬で消えてしまう。

今時の電子書籍や、何らかのプラットフォームの上にある音楽、映像データ、ダウンロードコンテンツなんかも、「確かに購入した」にも関わらず、サービスの終了だったり、端末やソフトの不具合だったり、時代の要請に合わせて変化に追従できなくなると、途端に「なくなる」瞬間、課金が水泡に帰すという経験をされた方も、何人かいらっしゃるんじゃないだろうか。

モノがないから、他者と共有する、共通認識を作るのに時間がかかってしまう。「モノ」としてカタチを固定できないし、保存がきかなかったり、小分けにして運搬することも難しかったりする。情報やデータとして永続的に残せるのに、外側が残せないから、一度消え去ってしまえば、あとから「そこに何があったか」を見つけてもらえなくなる。

「モノとしてそこにある」ことには強さも弱さもあるし、「カタチがないこと」にもメリットとデメリットがある。「カタチがない」の上、あるいは「モノとカタチないもの」の上に立ち上がる概念や主義、社会や国家にも、当然のように強みと弱みが存在することになる。それが具体的に何かを指す、詳細に掲げていくのは、ここではやらないので悪しからず。

大きな「カタチないもの」には、「クーデター」が有効?

集合体、メタ的という弱点を的確に突く『クーデターの技術』

第一次世界大戦から第二次世界大戦のヨーロッパ、特にファシズムを肌で体験し、ヨーロッパ中を取材していたクルツィオ・マラパルテがまとめた、クーデター論『クーデターの技術』(中公選書他から刊行)。筆者、より正確には筆者が取材したトロツキーによれば、クーデターとは技術、だそうだ。

その要諦は、「情報・人・物流・エネルギーを手中に収めること」。よく訓練されたスペシャリストの手によって、様々な分野の「流れ」を抑えること。首尾よく達成するには、隠れ蓑になる社会秩序の混乱、決行は短期決戦、勝ち目のない戦いには打って出ない、奪還後の守り、抑え続けるだけの体制、戦力差も重要になってくる。

当時のソヴィエトにおける思想的な主導者、戦略は恐らくレーニンが担っていただろうが、実働において鍵を握っていたのは、戦術家のトロツキー。要するに、『素人は「戦略」を語り、プロは「兵站」を語る』。そこに、「戦術の確かさの高さ」、現場における実効性、着実性が物を言ったというところだろうか。

トロツキーがひっくり返したのは、社会秩序、経済や支配体制。これらも「巨大なカタチないもの」だけれども、「戦略」も「カタチないもの」をいくらかメタ化した、「巨大な(高次の)カタチないもの」の一つ。すなわち、「具体的に何かをやる時」や「巨大なカタチないもの」をひっくり返す時に重要になってくるのは、戦略よりも戦術、そして兵站ということになる。

兵站や戦術は、戦略よりはいくらか低次の「カタチないもの」。より身近な「カタチないもの」をどうするか、そこを抑えればどうなるかを、『クーデターの技術』は教えてくれている、と見ることもできる。

「ケ(日常的)な流れ」が、重要な鍵

確かに存在している「身近なカタチないもの」がキモ

兵站、ロジスティクスというとピンと来にくいが、ヒトという動物として、あるいは人間という社会(都市)に生きる存在として、恒常性を保つ、いつも通りの日々を送るために必要なもの、「いつもの流れ」と言い換えると、この「技術」はさほど難しい話ではなくなってくる。

水や食べ物、ガスや電気といったエネルギー、個別に情報をやり取りする通信、通信以外の情報のやり取り(放送や、相手を拡張した通信)。これらを破壊する、あるいは何者かに奪われれば、何事もない「ケ」が乱れることになる。ここが乱れる、あるいは握ることさえできれば、あとは何だってできる。

大きな絵を描くこと、ビジョンを描くこと、理念を掲げることも大切だし、戦略も重要でないというつもりはない。しかしながら、それを実行に移す部分、具体的な「力」を発揮する上では、ここを見失っていては話にならない。もっといえば、兵站を確かなものにした後は、戦術が機能すること、「個別の取り組み」で着実になすべきことがなされることも目指したい。

つまり、着眼大局、着手小局。立派な戦略、計画をぶち上げたところで、その目論見が目論見通りに実行されなければ、絵に描いた餅。戦略を支える戦術、戦術を支えるタスクが着実に実行されない、「行ける」という確証を持てないのであれば、計画の不確かさが大きく膨れ上がってしまう。

まずは、確かにそこにあるもの、身近な「カタチないもの」をしっかりグリップする。抑えておくべきことを着実に抑えておく。それができるか否かが、最初のキーになってくる。

集合体なら、多数派を切り崩せば覆る

「強い中心」か「圧倒的な多数」を確立すればいい

現代資本主義、民主主義国家のような「巨大なカタチないもの」の弱点は、「何となく信じられている」こと。それを信じている人が圧倒的に多く、疑いを持つ人、現状維持で不満がない、あるいは不満をぶつける先を見つけられていない人が多ければ、「見えにくい空気感」や「ほぼフィクションの、実体のないカタチないもの」は存続できる。

現代資本主義、あるいは民主主義国家、あるいは今の日本という一種のフィクション、「遊び」に「何となく」で参加して、ゆるく、ふわっとした感覚で競技に参加、強い結びつきや自覚を持って日々を過ごしている、という人はそこまで多数派ではないだろう。ただ、いい悪いという意味ではなく、「そういう人」が圧倒的に多数派を占めているから、「こう」なっている。

一方で、「今の日本」あるいは「今の経済」が「今後もそのままでOK」、もしくは「今のままでも希望がある、期待が持てる」と思っている人はどれぐらいいるだろう? 個人的には別の記事でも触れたように、崩壊が始まりつつあるというか、一連の「遊び」が体裁を保てなくなるぐらいに、秩序の崩壊が進んでいる、「遊び」として成り立たなくなりつつある、ような気がしている。

これらを踏まえると、「新しい多数派」を上手く形成できれば、「新しい遊び」に仕切り直すことができる、ということになる。それを真面目にやるのが、地方や中央の政治であり、民間であれば何らかの団体創設、アライアンスの締結、なのだろう。ただ、外側から眺めている限り、主導している面々が今ひとつというか、やり方も含めて微妙な臭いを感じていて、どれもこれも「過去の焼き直し」にしかならない、「劣化」で止まればマシな方かな、というところだろうか。

だからといって、暴力に訴えかけるクーデターやテロルに手を染めよう、とも思っていないし、それらを煽る意図も全くない。まぁ、そもそも相当「上手くやる」ことができなければ、コンプライアンスに遵守したやり方であっても潰されてしまうのが、世の常、人の常。変化を抑えつけ、「イノベーションのジレンマ」を受け入れようとしない既得権層、支配者階級層に無策に歯向かわず、強かに水面下で「上手くやる」他ないでしょう。

難しいけど、チャンスはゼロじゃない

静かに備える。平和裡に実行する

『クーデターの技術』や『わが闘争』(アドルフ・ヒトラー著 角川文庫)、バーネイズの『プロパガンダ』やリップマンの『世論』などに限らず、この国には多くの書籍が母国語で読める環境が整っている。国によっては読めない本も、日本なら問題ない書籍も沢山ある。危険なことにも転用できる思想、技術論を「危ないから」と単純に遠ざけるのも正しくないだろうし、そこで学んだことを用いて、他者の自由や財産・生命を冒すのも正しくはない。あくまでも、「より良い未来」を追求するため、実現するための材料として、そういった書籍や考えにも触れていく姿勢を常に持っておきたい。

いわゆる「マルクス主義」的な、暴力による革命思想もないし、それらが上手くいかずに半世紀以上経っていることは、この国も世界も知っている。もっとも日本の場合、思想や精神的な部分では、今も戦後や「マルクス主義」の影響下から完全に抜け出せているとはとても言えない。そろそろ、そういった引力から抜け出して、真なる自立、独立の末の次代追求、思い切った大転換を模索しなくてはいけないのだが、前時代的、前々世紀的な要素、残滓が本当に邪魔くさい。

そういう「邪魔くさいもの」に目をつけられないよう、目をつけられても切り抜けられるよう、本当に強かに、極々静かに目立たずに、とことん平和裡に、着実に実行できるその日まで、己や仲間の技術やココロを磨く日々を過ごしたい。

執筆者プロフィール

長谷川雄治(はせがわ・ゆうじ)

物書きな作れるWebコンサルタント。
HTML/CSSのマークアップやWordPressのカスタマイズ案件を経験し、サービス構築やブランディング、サイト設計や戦略プランニング、各種原稿、書類作成まで担う。
独自色の強いコンテンツマーケティングの人という立ち位置も見出だしつつあり、不足しているものを補うべく、日々実践中。

2019.07.31

2019.07.31

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