Vol.13 日本らしさを考えてみる 2

2019.08.18

前回に引き続き、一冊の書籍を取り上げながら、その読後感等を好き勝手に拡げて、自分が考えていること、日本らしさの断片(ネガティブ、ポジティブ問わず)を書き散らしてみようという試み第2弾。今回は、雇用に注目した書籍から、日本らしさについて書いてみる。

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『日本社会のしくみ』(小熊英二著 講談社現代新書)

「雇用」を中心に、明治以降の経済、社会変化を見ていく書籍

2019年7月20日が初版の、『日本社会のしくみ 雇用・教育・福祉の歴史社会学』(以下、本書)。明治以降の経済や社会について、データや文献を足がかりに、バイアスに囚われずに描き出されたように思える書籍。この一冊だけを持って、「これが正しい」と言い切るのは難しいものの、一般的な教科書や歴史書では描かれない部分を見る際に、信用してもいい「物の見方」、信じてもいい論説の一つに思える。

最近読んだ近い書籍としては、上念司氏の『経済で読み解く〜』シリーズがある(向こうは室町時代以降〜昭和まで)が、あちらがちょっぴり空中戦、高いところから俯瞰した目で描かれているように感じるので、地上からの見方、血の通った群集、経営者の目から見た「その時代」を追いかける、体感するには良い比較対象ではないだろうか。見えない歴史、描かれていない歴史を観測するためには、両方合わせて「その時代」を照らしてみるのがベターな気がする。

経団連の同質性の恐ろしさ、学歴に対する異様な捉え方、「社員の平等」。生き方のモデルケースにされる割に、意外に少ない「大企業型」の比率や、民間企業の雇用モデルになった「任官補職」と経済学の原則に反する身分給など。欧米諸国との比較、明治維新以降の変化、戦前、戦中を経た変化など。雇用や社会保障に軸足を置いた社会慣習、仕組みの束について、小熊氏の解説、論理が展開されている。

明治以降だけの言及ではない

「ムラ」や「カイシャ」以前の「イエ」や江戸時代の話題にも触れてはいる

言及の比率としては、ほぼ一握りや一行、一文レベルのところもなくはないものの、必ずしも明治以降の話題だけで論理を積み上げているわけではない。データや文献を足がかりにしている以上、どうしても「ないもの」についてはあまり多く言及できないようで、「一応触れておいた」というレベルを超えないものの、江戸時代から藩ごとの職種別団体が存在したことも書かれている。

なぜ、ドイツをはじめとするヨーロッパのように職務や職種ごとに横の繋がりが強い雇用体系にならなかったのか、アメリカのように「同一労働同一賃金」、職務の平等を目指す動きが取られなかったのか。その理由を考える一端が、「イエ」や江戸時代以前の働き方にあるように思える。そこも、ポジティブかネガティブかは分からないものの、「日本らしさ」の一つになるんじゃないだろうか。

明確なデータや文献等に辿り着いているわけではないので、あくまでも素人の勝手な意見、勝手な妄想になってしまうことを、あらかじめ断っておく。

雇用の原点は、大宝律令

天皇家の血筋をめぐるメロドラマと権力闘争な日本史

物凄く乱暴に言えば、世界史は「キリスト教の正当性をめぐるメロドラマ」で、日本史の場合はそれが「天皇家」。権威と権力の混同に注意しながら出来事を見ていく必要はあるものの、その時代時代で人は力や血筋、家柄を求めて争い、妬みや嫉みにも塗れながらの行ったり来たりを繰り返している。

その中で、「雇用」という切り口で日本史を眺めた場合、基本的には天皇家の近くや、為政者の近くにいて、国内の様々なルールを司り、運用していく「官僚」を抑えるのが手っ取り早い。日本独自の道を歩み始めた頃の官僚制、雇用としては「大宝律令」が原点、そこで定められた位階、天皇家や血縁以外の出身者としては、いかにそこへ取り立ててもらうかがキモになっていた。これは、腕っぷしに頼る武人、武士であっても同様。いかにして、「征夷大将軍」に任ぜられるか。またその不文律、「源氏でなければならない」という正当性を満たすか否かが大事な時代があった。

明治維新、あるいは敗戦後に多少改められたとはいえ、地域柄や血筋、お家柄が問われるというのも、まだあるだろう。2000年近い慣習は、たかが150年や70年で変わるものではないし、長らく力を失っていた、落としていた貴族、公家が明治維新で多少息を吹き返したとなると、武家社会でも脈々と受け継がれてきた伝統に、「古の伝統」が加わって延命されていてもおかしくはない。

政治を握る為政者、決定権者が移り変わったとしても、行政を実行する官僚はさほど変わらず、その「官」の仕組みが、のちの「民」の手本、土台となったのなら、大宝律令の頃の枠組み、仕組み、考え方が今もなお継続していると考えても悪くはないだろう。

ただ、そうすると「儒教」的な側面、「上のものがずっと偉い、敬うべき」という考え方や、「家長制」のような、場合によっては理不尽にもなり得る暴力制も孕んだ権威性まで、継続されているということにもなりうる。「公のため」よりも、閉ざされた「身内の中での保身、立場の確保」が優先されがちで、「外から見てどうか」、あるいは「客観的な観点ではどうか」といった議論は封殺されがち。実行力云々よりも、組織内での政治力や内向きの実績作りに重みを置きがち、になりそうな気がする。

イエごとの秘伝、奥伝。言葉より身体性?

丁稚奉公と修行。経験重視の秘密体質?

「言霊の国」と言いながら、人を育てる時には何かと「身体で覚えろ」、「見て盗め」。自然信仰も根強く、身体性や肌感覚による手仕事、言葉や見えるものでは伝わらない部分も丸ごと伝えようとする手法そのものが、全くもって間違い、悪いやり方だとは思わない。組織に属さないと習得できないということは、スキルやできることの属人性は高まるものの、秘匿性は高められるし、感覚的に掴む、身体で覚えるというのも、頭で理解する以上に重要かつ有効なやり方になる時もある。芸術的な仕事、指先や手の感覚が大事になる手仕事や自然相手の仕事の場合は、特に有効だろう。

イエごとの商売の仕方だってあるだろうし、それによって伝統や秘密を守ること、受け継いでいくことも可能になる。しかし、「横の繋がり」は生み出しにくい。かつては「向こう三軒両隣」という言葉もあるように、「身内の感覚」は今より広かったかもしれないが、核家族化が進み、市場での競争が激しくなってくると、「身内」はどんどん狭くなる。早々、「自分たちの秘伝」は外に出せない。

言葉にしない、文字にしない、レシピにしない。そうすれば自分たちの「イエ」は守られる。しかし、「イエ」以外はどうだろう? 「イエ」の外には世間があり、市場があり、社会がある。ウチが良ければそれでいい? ウチの中で伝わるからそれでいい? これも、良くも悪くも日本らしさが招く難しいポイントだろう。

閉ざしやすい島国と、固定化しやすい儒教

身内意識と甘え。変化の排除も働きやすい

学歴にこだわる割に「何を学んだか」は重視しないし、活用させることもあまりない。就職してからの学び、経験を重視する様は「カイシャ」というよりは「イエ」や「身内」に近い気がする。社長を頂点とする疑似家族。拡大路線の時はまだマシだけど、縮小すれば「怖いオヤジ」に豹変しがち。取り繕って「余所者」を補充しても、身内じゃないからすぐに切り離せるのも、「イエ」の怖いところ。

新しいものや実力者による「変化」、組織内の常識が通用しない、実力による「追い落とし」(=下克上)も望まない。ただひたすら現状維持、手に入れたものを大事にする。それを押し付けやすいのも、儒教的な要素が盛り込まれた大宝律令、その残り香を抱えた明治以降の官僚制度、官僚制度を取り込んだ民間の大企業型の雇用体系、ということになる?

仕事内容や職種による給与ではなく、身分給や生活給がベースの給与体系となれば、経済学の原則に則ってるかも分からない。身分給の原点は、江戸時代の旗本や武士、あるいは貴族や公家。周りにどれだけ金をばらまくかが基本で、「リスクをとっていかにパイを増やすか」よりは「コストダウンで、このゼロサムをいかに上手く差配するか」を重視する。

創業社長なら、「リスクをとってパイを増やす」思考にもなりやすいが、それ以外だと「ゼロサム」と「コストダウン」を考えがち。後退局面であればあるほど、前例踏襲を求めて、リスクの少ない選択肢を取りがちだが、それでは圧倒的なイノベーションは望めない。必要なコストをかけないと、得られるものも小さくなるのは当たり前なんだけれども、サラリーマン社長や後退局面の経済活動に組み込まれた資本家では、大胆な勝負に出られない。

給与の考え方が経済の原則にそもそも則っていない上に、視野が狭く冒険できないリーダーばかりでは、今の経済状況もさもありなん、といったところか。

内向き志向のマインドセットが、コミュニケーションを誤らせる

「身内向けの商売」は、通用しない

人口も経済も拡大局面であれば、「自分たちの外側」を考えないで、「いい商品」や「いいサービス」を作れば売れた。それが独りよがりなものであっても売れただろうし、勘違いしたマーケットインでも、多少なりとも売れるだろう。

しかし、長〜いデフレと主にITやデジタル化、加速したコモディティ化による低価格化、総中流ではなくなった購買力の低下によって、ものもサービスも、そう簡単には売れなくなっている。「お客様」を意識した商品作り、情報発信をしなきゃいけないのに、どうでもいいものを計測して、余計な情報発信に時間を割き、狙いどころを間違えた効果の薄い宣伝広告で傷を広げる。

「継続可能」という綺麗事を掲げて、かけるべきコストをかけず、社会の公器であることや真摯さを忘れ、上から降ってくるお金、身内で回されるお金(それも徐々に減っていく)を必死に追いかける。「身内意識」が高いから、そんな「甘え」も許される?

「日本らしさ」も守りつつ、「当たり前」もやりたい

外を向いて「複雑な世界」へ歩み出そう

「言霊」も大事だし、肌感覚や身体性、言葉にならないものや見えないものを大切にする姿勢も失ってはいけないと思う。修行しなければ得られないスキルや経験、一子相伝や秘密の極意、奥伝といった伝統も捨ててはいけない。共通認識がある前提での以心伝心や「空気を読む」、ある程度の甘えが許容された内向きのコミュニケーション、身内ならではの独自ルールも大切ならしさ、だと思う。

ただ、予測不可能な複雑な世界、先の読めない未来へ進んでいきたいのなら、内側を見ると同時に外や周りも見なきゃいけない。相手や世間に主導権を委ねたコミュケーション、商品開発やサービス提供を考えていかなきゃいけない。

単に擦り寄るだけじゃなく、「自分たちのらしさ」を抱えたまま、外向きの行動を取る。「今まで通用したこと」だけでなく、「どこへ行っても通用するやり方」、「どうみても間違いのないやり方」や「原理原則に則った手法」も活用するべき。世間も国際社会も市場も社会も、抑えておくべきルール、容認すべき態度、変化に備えた構えというのがあるからだ。

内側にこもっていていい時代、というよりは「モデル」や「簡単な仮定」が通用した時代は終わりを告げつつある、というよりはとっくに終わっていて、終わった世界観、価値観に留まろうとしすぎている。

もういい加減に、現実の世界、綺麗なものだけでも分かりやすいものだけでもない世界、価値観に出ていかなきゃいけない。内側に向きやすい意識、身内を作り出しやすい考え方にも素晴らしいのだから、それと合わせてそうじゃないやり方、考え方も身につけるようになればいいなと思っている。

執筆者プロフィール

長谷川雄治(はせがわ・ゆうじ)

物書きな作れるWebコンサルタント。
HTML/CSSのマークアップやWordPressのカスタマイズ案件を経験し、サービス構築やブランディング、サイト設計や戦略プランニング、各種原稿、書類作成まで担う。
独自色の強いコンテンツマーケティングの人という立ち位置も見出だしつつあり、不足しているものを補うべく、日々実践中。

2019.08.18

2019.08.18

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