Vol.15 日本らしさを考えてみる 4

2019.08.21

だんだんタイトルからも、書評からも遠ざかりつつあるように思う本シリーズ。今回も、読んだ後の感想、読んでから考えたことを好き勝手に拡げて、考えていることを外に出して行く試み第4弾。今回は、上念司氏の『経済で読み解く日本史』シリーズをダシに、色々書き散らして行こう。

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『経済で読み解く日本史』(上念司著 飛鳥新社)

室町・戦国時代から大正・昭和時代まで。5冊に渡って解説してくれる文庫シリーズ

今や経済評論家としてはお馴染みの上念司氏が、経済という観点から日本の歴史を解説してくれるシリーズの文庫版。文献や経済的な動きを把握しやすくなる室町・戦国時代を起点に、安土桃山時代、江戸時代、明治時代、大正・昭和時代と5冊に分けてお届けしてくれている。文庫になる前の単行本を買い揃えるよりは、遥かにお得じゃないだろうか。

あくまでも、「上念司氏の解説」という見せ方、経済という一定の視点、切り口があるので、そこに身を委ねられる人にとっては悪くない「読む講座」。暗号通信と呼ばれる「そこでこの単語を出してくる?」というのもなくはないが、全体的に読みやすく、また「経済として見たとき」の学び、得るものもしっかりあるので、他の「ナンチャッテ日本史本」を読むぐらいなら、こちらを読んだ方が賢明だろう。

ただ、小熊氏の『日本社会のしくみ』でも少し触れたが、「経済の総体」や「幕府の経済戦略」といった、やや規模の大きな経済活動を中心に取り扱っているようで、どうにも俯瞰的、空中から地上を見下ろしているような感覚にもなる。確かな視点、一定の軸をブレさせずに最後まで解説してくれているので、「今まで描かれてこなかった歴史」を見る有力な材料の一つではあるものの、『日本社会のしくみ』等も合わせて読まれた方がより正確な認識が出来上がるように思うので、個人的には併読をおすすめしたい。

覇権を握ったかもしれない分岐点がいくつもある

「もう少し後ちょっと」で邪魔する因子がビルトインされている?

本シリーズの読後感に限らないが、経済という切り口で整えていただくと、「日本はもっとすごい国になった可能性(もしも、”IF”)があったのでは」とつくづく思う。大東亜戦争を避けられた世界線、イギリスやアメリカと伍する大帝国を確立、安定させられた世界線、朝鮮出兵をせずに海側からアジアを席巻したかもしれない世界線、現在の朝鮮半島どころか中国あたりまで手中に収めていたかもしれない世界線など。経済的な理由、政治的や軍事的な要素など、主要因はそれぞれ違えど、「もうちょっと上手く行っていれば」と思う場面は、一度や二度じゃない。

その時々の外来宗教がきっかけだったり、外部からの攻撃がきっかけだったり、まるで日本列島の外側、チベットや中東あたりに「日本をどうするか」をコントロールする意識、秘密結社があるんじゃないかという陰謀論にも陥りそうだが、内側に意識が閉じこもりがちな島国だったから、世界で最も古い国の一つだからこそ、そういった「もしも」が見つかりやすくなっているのだろう。

埋め込まれて育まれたとするなら、ここ数件で触れた「甘え」や「身内意識」、それから「儒教」。経済や文化を引っ掻き回したプレイヤーとしては、仏教、特に禅宗の一つ、臨済宗や、そこと結びつきがちだった「(禅による)茶や茶文化」あたりだろうか。年上や年長者を敬え、身分や位の高いものを尊べ、伝統に根ざしたもの、希少なものをありがたがれ。外側の価値観より、身内の常識。原理原則に基づかないダブルスタンダード、インチキなルール運用、客観性や科学を軽視、無視しがちな態度など。「嫉妬」や「愛憎」を生み出しやすい濃いめの身内意識は、成功を阻害するには十分な要素だろう。

日本国内にある要因と、外部からもたらされる意図とが絡まり合って、日本の社会、歴史は翻弄され続けてきた。本シリーズを読んで、強くそう感じてしまった。

「科学」や「客観視」が苦手な日本人?

「前例がないもの」と、「人物と出来事との切り分け」とが苦手な人が割といる?

災害大国の割に、「イエ」を通じて形の有無に関わらず「縦のつながり」を遺しやすい、受け継ぎやすい日本人。「何をやるか」に関わらず、「すでにあるもの」を受け継ぐ、あるいは暖簾分けなどをして分派するケースが多いだろう。いわゆるパイオニア、何かしらの先駆者になる「創業者」タイプの人間よりは、2代目、3代目のような(事業)継承をする「経営者」タイプの人間の方が多いだろう。

創業者タイプは、リスクをとって何かをやる、ゼロからイチを生み出す、旧い物を壊して刷新する、パイの分配方法を考えるより、パイそのものを増やすことを考えるタイプ。経営者タイプは、リスクを取るよりも先にコストダウンを考える、イチを100や1000にする、目の前にあるものを改良してちょっと目先を変える、手元に流れてくる取り分をうまく差配して上手に使うことを考えるタイプ。

内側を向きやすい意識構造、儒教思想と相まって、経営者タイプが力をつけて行くとどうしても前例踏襲に走ってしまうし、内向きの政治闘争、権力闘争に明け暮れるようになる。正当な意見よりも、誰が発言したかに重みが置かれ、どんな結果を得られたかより、誰を満足させられたかが優先され、無駄も多くなりがち。身内意識を捨てられないまま、外側に向き合ってしまうと、プロダクトインタイプの施策や、コストダウンな施策を打ちがち。リスクを許容して大胆な施策、前人未到や前代未聞の動きは中々とれない。

マーケットインで考えるには、日本人の大半は向いていない。参考にする誰かが前にいる間はいいが、自分が先頭に立ってしまう、集団を率いて行く立場に立った場合、大胆な動きを取れない日本人も多い。身内の理屈で理解できない、前例からかけ離れているからわからない、わからないから危ない、危ないからやらない、みたいな思考を繰る日本人も、恐らく一定数存在する。それも、1000年から2000年近く、存在し続けている、ように思える。

だから例えば、何かをやるときに立ち止まってゼロベースで考える、前例がなくてもリスクをとって大胆な動きを取る、壊すべきものなら躊躇なく破壊する、身分や上下関係に関わらず言うべきことを言う、その諫言や進言を客観的に判断して受け入れる。苦手な日本人が沢山いるんじゃないだろうか。

もっと自由な国になる可能性もあった

儒教やマルクス主義の恩恵を受けた偉い人を、エラいままにしてしまった

150年前の明治維新で、内側に向きやすい意識体系や、上下関係を重視しすぎる「儒教」を改善する可能性もあったのに、結局は旧支配者(武士や公家)がそのまま新政府、あるいは軍部やメディアといった情報産業を握ってしまった。その結果、洗脳に近い支配構造や教育体系、経済を含めた社会の仕組みは大して変えられず、今に至っている。

大東亜戦争の敗戦後、その辺りを大きく叩かれたとしても、結局は秩序の維持や日本の台頭を封じるための措置が取られた結果、戦後70年以上が経った今でも、見えない足かせは取れないままだ。

儒教に対する対抗策であるマルクス主義/共産主義も、支配構造に対する不満や、暴力的な動き、思想の刷り込みを煽るだけで、社会というフィクションの中に生まれた、ズレにズレた新興宗教、トンチンカンな思想体系に落ち着いてしまった。いずれも、支配体系の維持や、それを打開する方法、ぐずぐずと言い訳を積み重ねた正当性に裏打ちされた暴力的な革命思想を持っていて、「誰が言ったか」、「どれだけ伝統性があるか」、「誰の威光を受けているか」の違いでしかない。

こんなものに頼らなくても、日本にはもっと優れた思想、宗教がある。自然に根ざし、独自の価値観を育て上げた旧い宗教や、身体性や不立文字を大切にする宗教もある。「脱亜入欧」が叫ばれてから、もう十分な時間が流れた。本居宣長らが「国学」を打ち出した時からも、随分な時が経った。もういい加減、儒教もマルクス主義も放り出してはいかがだろうか?

いつの間にか取り違えさせられた、「清らかさ」

「清貧」のような穏やかな「清らかさ」だけが「清らか」なのではない

日本人の陥りがちな誤り、陥れられがちな認識の一つが、「清貧」や「清貧は素晴らしい」という思想。それを打ち出す仏教徒、それらへの執着を手放さなければならないお寺の方が、はるかに欲に塗れている。いかに汚いやり口で経済や政治に関与してきたか、そういうことも、この『経済で読み解く』には書かれている。

清らかで貧しいことを周りに求める、人に勧めるのは、たいてい「そうではない人」たち。あるいは、一度「豊かになって十分楽しんだ人」たち。心から「みんなで貧しくなりましょう」とか「清らかになればいい」と考えている人に、経済を任せるのは得策ではない。経済の語源である「経世済民」は「民を救う」ためのものなのだから、民を救うためには豊かにならなければならないし、清らかさ云々を差し置いて、力を持たなければいけない。たとえ清らかでも、貧者では民を救えない。「経済」になりえない。

また「清らか」を何となく「穏やか」なイメージだけに用いている、そう思わせるような使い方をするのもよろしくない。日本における「清らかさ」には、山伏が行う厳しい修行やその霊場のように、荒々しく雄々しい清らかさ、「すがすがしい清らかさ」も存在している。河川の源流のように躍動感あふれる清らかさ、山の断崖から望む怖さと冷たさも伴うような清らかさも、この国の価値観として埋め込まれているはず。

大人しいだけ、穏やかなだけ、ただ綺麗なだけが「清らか」なのではない。活動的で雄々しく益荒男ぶりな力強い「清らかさ」もある。後者の「清らかさ」も持ち合わせて経済活動をやろうと思えばどうなるか。少し想像すれば、分かるだろう。

優しいだけが「和」なのではない

手弱女ぶりと益荒男ぶりとを調和させる、バランスさせることを目指したい

秩序を保ちたい人たち、支配構造を変えたくない人たち、すでに既得権益を得ている人たちには、民衆には牙も爪も必要ないと思っているだろうし、危ない奴は去勢しようと思うだろう。

でも、人間も動物である以上は大人しいだけ、優しいだけじゃない。積極的に他人を傷つけろ、何でもかんでも破壊しろと言うつもりはないが、雄々しさ、力強さも持っておく、時には力を行使すると言う選択肢も持っておかないと、バランスがおかしくなる。

明治維新と敗戦とで二度の去勢、永きに渡る弱体化を図られた日本人だけれども、裡に秘めた戦う意思や力強さ、隠れた爪や牙というものを持ってもいいんじゃないだろうか。個人的には、密かにそう思っている。

執筆者プロフィール

長谷川雄治(はせがわ・ゆうじ)

物書きな作れるWebコンサルタント。
HTML/CSSのマークアップやWordPressのカスタマイズ案件を経験し、サービス構築やブランディング、サイト設計や戦略プランニング、各種原稿、書類作成まで担う。
独自色の強いコンテンツマーケティングの人という立ち位置も見出だしつつあり、不足しているものを補うべく、日々実践中。

2019.08.21

2019.08.21

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