Vol.16 日本らしさを考えてみる 5

2019.08.21

やっぱりタイトルからも、書評からも着実に遠ざかっている本シリーズ。まだまだ同じタイトルを使いまわして、読んだ後の感想、読んでから考えたことを好き勝手に拡げていこう。第5弾は、飛ぶ鳥を落とす勢いの『AI vs.教科書が読めない子どもたち』。早速、書評かどうか分からない意見陳述を始めよう。

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新井 紀子『AI vs.教科書が読めない子どもたち』(東洋経済新報社)

AIに対する恐怖やシンギュラリティにまつわる話と、読解力の関係を解説してくれる書籍

帯や奥付によると、2018年2月の刊行以来、山本七平賞、大川出版賞、日本エッセイスト・クラブ賞など、様々な賞を受賞し、2019年3月の第12刷時点で25万部突破の大ベストセラー。「パソコン読み物」系の書籍としては、近年では中々のヒットと言えるんじゃないだろうか。

AIに関する解説もしっかりしていて、著者の新井氏は「シンギュラリティなんてこない」や「AI、恐るるに足りず」的な論も展開されているようだ。

「読解力のない人間は仕事を奪われる」(本書、帯文)やら、タイトルにもなっている「教科書が読めない子どもたち」だが、あえてそこに切り込もう。まず簡単にツッコミを入れておくと、前者は「読解力のない人間が仕事を奪われるようなイノベーション、社会変革は、この国ではしばらく怒らない」。後者は、「教科書が読めない(=読解力がない、文脈が読めない)」で問題なのは、子どもたちよりも大人、それも人数が多い高齢者の方だ。

上念氏の『経済で読み解く日本史』や小熊氏の『日本社会のしくみ』を読む限り、「教科書が読めない」人はこの国(に限らず?)には常に一定数存在しているように思える。たまたま今回というか、現代になってその調査が可能になり、調査対象が「子ども」だったから、急に「教科書が読めない子どもたち」が出てきたように思える(タイトルになっている)。しかし、TwitterなどのSNS、新聞やネットで見聞きする限り、「教科書が読めない」のは「子どもたち」に限定されているとは全く思えない。

むしろ、「教科書が読めない」が「子どもたち」だけなら高が知れている。教えることもできるし、叩き込むこともできる。何より、対象となる人数もしれているし、社会的な影響力もまだまだ小さい。しかし、これが「団塊の世代」や「団塊Jr」のようなボリュームゾーン、あるいはそこそこの人数を占めている「大人」だったら、どうしよう?

どうやって教える? どうやったら学んでもらえる? 変わってもらえる? 「教科書が読めない」まま社会的にそれなりに高い地位についたりして、「教科書が読めない」のに政治や経済、教育の要所にそういう人物が居座っていたとしたら? 十分にあり得るというか、実際にそうなっているとしか思えない事例がチラホラ見られるから、実際はこの書籍のタイトル以上に恐ろしい状況が広がっている、と言える。

また、『日本社会のしくみ』で触れられているように、この国は「異様な学歴至上主義」にも関わらず、「学んできたこと」は軽視しがち。大学名は気にするが、学歴そのものや学力は重視しないため、周りの先進国が軒並み「修士」や「博士」といった大学院卒の能力を求め出していて、相対的な低学歴化が進行しているにも関わらず、深刻な人手不足も何もかも、本気で解消する気配がないところからすると、「読解力の有無」で仕事を奪われるような社会は、基本的にやってこないだろう。

極端な弱肉強食、大企業が超大企業化したり、デフレ化が進行してより一層人員整理に傾いた場合はその限りではないが、そうなった場合、もはや日本に競争力は無くなっている。仕事云々より、国家存亡の危機に瀕しているだろうから、やっぱり「そんなこと」を気にして恐怖する意味は全くない。

ここまでで簡単な反論については、あらかた述べられたかと思うが、もう少し深掘りをしていこう。本格的な深掘りをする前に、「教科書が読めない」をもう少し分類してみたい。

「教科書が読めない」、3つのパターン

読解力がない、刷り込まれた常識が最優先、知らないものは拒否

1つ目は、本書でも触れられている「読解力がない」。これは、文字として書かれていることは読めるけど、それが意味することや、その文章を読んで想像されること、どう解釈すればいいかといった能力の有無を指す。詳しくは本書を読んでいただくとして、この場合は何が問題かというと、「文脈が読めない、想像力がない」ということ。

書いてあることは読めるけど、書かれていないことは読めない、分からない。言葉になっていないことは分からないし、表情やしぐさといったものも、毎回解説しないと分からない。そういうレベルの、「読めない」。書かれてあることが具体的にどんな現象を指すのか、どういう状況を指すのかを考える、想像する能力にも欠けるから、注意書きの対象が自分かどうかも判断できないし、書かれてあることからの類推といったこともできない。

これも問題なんだけれども、他の二つに比べれば比較的マシな方だろう。勉強なり訓練なりをすれば伸ばせるだろうし、苦手なら、「そういうこと」を要求される仕事などをしなければいい。それだけのこと。ただ、この国では「そういうこと」がある程度前提になって生活が営まれることが多く、「空気が読める、読めない」という話にも発展するから、伸ばせるなら伸ばしておいた方がいい。

2つ目は、ここまでに何度か触れた「身内意識」も一因とする要素。教えられたことや、身内の中で正しいとされることがいつまでも優先となって、客観的な判断ができない、科学的な価値基準を持ち得ないということ。

ある区切りの中で通用しないものであったり、それを理解できるとした場合に村八分に合うような場合、途端に「読めない」ようになる。儒教やマルクス/共産主義による刷り込み、洗脳に近い信仰なんかもこれを引き寄せがち。

残念ながら、客観的に何が正しいか、科学的に何が真っ当か、学問的には今どれが正当なのかは、割と早いサイクルで切り替わる。自分で積極的に情報を摂取するようにする、大事に握りしめている常識(=偏見のコレクション)を冷静に査定できるようになっておかないと、「教科書が読めない」人になってしまう。

3つ目は、2つ目に近いものの、より個人的な反知性主義による「教科書が読めない」状態を指す。話を聞いても理解できない、専門家の解説を聞いても飲み込めない、誰の話を信じるか、誰の話を聞くべきかも判断できないのに、「知っている話」に飛びついて「それが正しい」というところから出てこない、動けないから「教科書が読めない」。

「身内」の外からやってくる新しい情報や、今まで生きてきて触れることのなかった情報、先端科学やちょっぴり難しい理系の話、小難しい哲学や技術の話題になってくると、「知らない自分」を受け入れられないのか、「知らないこと」に「危ないもの」というラベルを貼って、受け入れることを拒み続ける。

反知性主義という反応は、主に2つ目、3つ目の合わせ技による「教科書が読めない」だろう。もちろん、1つ目の場合もゼロではないが、それ以外の「教科書が読めない」の方が主義主張、個人のプライドやイデオロギーも絡んでくるので、改善も対応も困難になる。残念ながら、このタイプの人も相当数いるので、本当に大変。

教科書なんて、読めなくてもいい?

教科書が読めたところで、活かされにくい社会慣習、「社会のしくみ」

何度も繰り返しになるが『日本社会のしくみ』によれば、この国の一部大企業は「どの大学出身か」は気にするものの、何を学んできたのかは問わず、その人物の人となり、コミュニケーション能力などしか問わない。結局、企業という擬似家族に所属してから、「そのイエなりのノウハウや文化、空気感」を身につけるかどうかが大事になってくるため、「話が合うかどうか」、「身内として同調しやすいか」を気にしがち?

おまけに、「勉強」や「技術習得」に対するメリット、見返りが大きくならない。おおよそ26%しかいない「大企業型」ですら、大卒者枠は一定数に絞られていて、「はじめに人ありき」、「任官補職」(身分を与えてから職務を補う)形がベースにあって、高学歴者の増加に対処しきれないまま数十年が経っている。高度経済成長、右肩上がりの時代に改善が間に合えばよかったのに、大量の大卒者が吐き出されるタイミングで、日本経済は冷え込み始め、「せっかく勉強したのに」報われない人たちが大量に生まれ続けている。

これで、「異様な学歴主義」、「過剰な身内意識」がかけ合わされば、「どんなに一所懸命勉強したって意味がない」、「教科書なんか読めなくたっていい」、読解力なんて伸ばしてもしょうがない、と思う人を減らせないのも一種の「しくみ」と言える気がする。

受験以外のお勉強ができたところで、「ムレの外」から「群れの中を乱す新常識」は歓迎していない、よそ者は基本的に歓迎されない風潮もあいまれば、ますます「勉強ができたって」に拍車がかかる。だったら、初めから文句を言われないように「教科書が読めない」ようにするか、「信じておけばメリットがありそうな気がする価値観」に身を委ねた方がいいと思ってしまうのも仕方がない。

身内の常識 vs 客観的な判断で、敗北してきた

「ヨソ者に好き勝手されたくない」という意識、年長者の自己保身を打ち砕けなかった、近現代の日本

明治維新を経て「四民平等」が実現したのかもしれないが、結局は有力な元武士 + 有力な元公家という、「最初から強かった人たち」が官にも民にも情報産業にも学問の世界にもいて、そこに風穴を開けられなかった、ひっくり返すことができずに150年近い時間を過ごしてきた、というのが日本の近現代史、ではないだろうか。

地方創生が上手くいかないのも、イノベーションが上手くいかないのも、政治経済が理論通りに伸びていかないのも、オールドメディアがおかしいままなのも、全てに「過剰な身内意識」と「ヨソ者の排除」、年長者や既得権益者の自己保身、が関わっているように思うのだが、そんなふうに考えるのは私だけ?

そういうのを大々的に打ち砕こうとした学生運動のおかげで、高等教育が破壊され、初等教育は日教組と教育委員会、変な文科省や文化庁に握られている状態。これでまともな教育、知的産業を展開していこうという方が無理な気がするんだけど、その辺り、当事者の方々はどう思われるんだろう?

団塊の世代がその親世代ときちんと対決して、社会問題の解決を真っ当に迫っていれば、相当変わっていただろうし、団塊JrはJrで親世代にきちんと噛み付いて戦えば、まだマシだったはず。団塊の世代の親の世代も、一つ前の世代ときちんと世代間闘争をやっておけばよかったのに、どれもこれも旧い世代に打ち勝てず、力のある少数派に抑え込まれたまま今に至っている。

ここで急に子どもたちに、「教科書が読めるようになれ」、読解力を身につけろと求めたところで、何になる? そんなことを求める意味、理由が大人の側にあるだろうか? しっかり勉強できるようになったとして、それを受け止めて変革、改善するだけの器、環境を大人は用意できるのだろうか? その答えは、簡単にYesにはならないだろう。

「勉強」や「科学」、「(真っ当な)学問」が報われる世の中にしていかないと

シンギュラリティが来ても、日本は国力を失う

今の国際社会というのは、ドルが基軸通貨で、それに対する通貨として「円」がある。そして、「円」が安全な資産として買われるということは、日本が信頼されている、ひいては日本人の労働意欲、稼ぐ力が信用されているということになる。

日本人の勤勉さは目を見張るものがあるし、「今までの世の中」でも凄まじい発展を遂げて来たと思う。しかし、内側に向きやすい意識、「甘え」の悪癖に偏りすぎているような気もする。今は特に、「価値があるかどうか」や「前例から予測可能か」を優先して、物事を組み立てすぎているように思える。

「はじめに人ありき」は素晴らしいと思う反面、「職務」を考えた給与体系、雇用や社会保障も考えていかなきゃいけないし、日本が不得手とする外側を向く意識、外側から見る習慣、「はみ出す変わり者」も大切にしていかないと、その伸び代、可能性はどんどん小さくなっていく。

日本の持つ自由さ、懐の深さ、クレイジーと言われるレベルの発想力、手業の細やかさ、正確さといったものも強みにしたまま、知識の分野、哲学の分野、基礎技術や学問の分野もしっかり力を入れて、「生きた問題」にも対処できる企業、人材が溢れる世の中にしていかないといけないのでは?

このままいけば、勉強したことも科学も学問も、何もかも報われない世の中になってしまう。経済や社会慣習を徐々に変えていくためにも、ここら辺が踏ん張りどきなので、子どもに限らず、大人に対しても「教科書が読める」状態、自分の言動にしっかり責任を持つ真っ当な社会人の養成、矯正をきちんとやって欲しいと切に願う。

執筆者プロフィール

長谷川雄治(はせがわ・ゆうじ)

物書きな作れるWebコンサルタント。
HTML/CSSのマークアップやWordPressのカスタマイズ案件を経験し、サービス構築やブランディング、サイト設計や戦略プランニング、各種原稿、書類作成まで担う。
独自色の強いコンテンツマーケティングの人という立ち位置も見出だしつつあり、不足しているものを補うべく、日々実践中。

2019.08.21

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