Vol.20 日本らしさを考えてみる 8

2019.08.28

やや斜め上の展開になってしまった『メディアミックス化する日本』をネタにした書評。第8弾の今回はそこに、アニメ『さらざんまい』をめぐる山田玲司氏の解説なんかも絡めながら、輪をかけて斜め上の考えをぶちまけていこう。

この記事は 約 11 分で読めます。

,

幾原邦彦アニメ、『さらざんまい』解説の衝撃

衝撃的なアニメと「山田玲司のヤングサンデー #218」

『さらざんまい』を知らない方、「山田玲司のヤングサンデー」や『さらざんまい』にまつわる解説を知らない方もいるだろうし、「ヤングサンデー」の解説は、本来は有料会員になって全部見ないとダメな気もするけど、諸々気にせずガンガン行こう。で、最終回後のネタバレ云々も込みの、今回取り上げる解説は以下を見ていただいた方が早いでしょう。
https://www.youtube.com/watch?v=LpQ6Tr9Y9ao

『さらざんまい』の全体の解説、これから語る『さらざんまい』の登場人物である「レオ」と「マブ」の話、「カワウソ(帝国)」の話もぜひ追いかけていただきたいのだけれども、個人的に突き刺さったのは「レオ」と「マブ」の関係性。そこに、偶像崇拝と「虚しくない?」、「寂しくない?」と山田氏が導き出した解説の部分。

相当ポップかつ、BLテイストにまみれ、他にも考察ポイント、ツッコミポイントが盛り沢山の幾原邦彦の名作アニメ『さらざんまい』。そこに登場する二人のキャラクター、「レオ」と「マブ」の愛。「レオ」は、形だけで中身の入れ替わった偶像、虚構のキャラクターで、それを愛したいが、いくら愛しても愛してくれると応えてくれない「マブ」を、架空の存在に自己完結の愛をぶつけるファン、信奉者と見立てて解説。「推し(=アイドル)」と「ファン」の関係と、それに対して「そんな愛は嘘、偽りじゃないんですか?」と幾原邦彦は言ってるんじゃないか、痛烈なオタク批判が入っているんじゃないか、と山田氏は深掘りする。

ここで登場するカワウソは欲望を掻き立てる存在で、望む物の願いを叶え、その心を魅了して奪ってしまう存在として描かれていて、その側には「手放した絶望」がいる。そこに対して、素朴な民の象徴であるカッパの側から、「欲望を手放すな」と。このバランスを取るのがいかに難しいか、目先の妄想にも絶望にも振り回されずに集中する、中庸を取ることがいかに難しいかという解説もあるんだけれども、やっぱり突き刺さるのは、「嘘なんじゃない?」という強い一撃。

メディア産業、情報産業がひたすら「あれが欲しいんじゃない?」「これが欲しいんじゃない?」と欲望を煽り、憧れる存在として、愛を注ぎたくなる象徴として、キャラクターやコンテンツ、虚構を作ってきたのに、ここへ来て、「どこまで行っても一緒にはなれない、繋がれない」。「愛してくれ」と一方的に愛を捧げても、それは所詮自己完結、自己満足に過ぎなくて、向こうはそれに応えることも、振り向いてくれることもなく、お金を巻き上げるためのカモにしか見てないかもしれない、空っぽかもしれないよ、と。この解説、幾原氏からのこの突き放しは、めちゃくちゃ効いたというか、それはあんまりじゃないか、酷すぎる仕打ちなんじゃないか、という気持ちにもなってくる。

この辺のモヤモヤ、気持ちの部分をもう一度『メディアミックス化する日本』をいくらか引っ張って、考えを展開したいと思う。

メディアとの関係1. 甘える相手

父母の代わりに甘える対象、憧れる対象としてのキャラクター

『メディアミックス化する日本』から引っ張ってくる前に、一度語った持論から1つ持ってくると「甘え」の問題が関係しているのではないだろうか、と。日本社会において発達に必要な「甘え」、思春期の反発、自立するために必要な「衝突」を受け止めてくれるだけの「甘え」を受け止めきれなくなった家庭、環境がいくつか存在していて、生身の人間に向かえない分を、怖くない相手、文句も言ってこない相手としての代理父、代理母をフィクション、キャラクターに求めた人も少なからずいるんじゃないだろうか。

作られた存在だから、生身の人間と違って幻滅するところも少ないし、現実の父母では賄えない憧れの要素も持っている。見栄えもいいだろうし、付随する属性も自分好みのものが揃っている。どれだけ甘えても自分の声には答えてくれないが、反発されることも、攻撃を食らうこともない。甘えれば甘えるだけ、甘えさせてくれる「ライナスの毛布」みたいなもの。そういう、身近なヌイグルミ替わり、甘えるための的、憧れるための目標としての虚構、キャラクターがあったように思う。

もちろんメディアという性質上、憧れの裏には消費活動の促進、欲しくなる気持ち、消費刺激も含まれているから、そこには経済促進んという下心も含まれているが、甘える側はそこを無視しているか、見えていても見ないふりをして受け入れる、それを踏まえた上で経済活動に参加していく。

積極的に経済活動として参加しているケースと、そうでないケースの少なくとも2パターンの関わり方はあるんじゃないだろうか。ここではそんなに問題にする違いでもないので、これ以上の深掘りはしない。

メディアとの関係2. 自分探しの対象

アイデンティティの足場として、物語を求めた?

『メディアミックス化する日本』によれば、「大きな物語」が役割を終え、ポストモダンの時代に入って行く、70年代の「政治の季節」を終えると、「フェイクの歴史」、「虚構のサーガ」を作るクリエイターが増え始めた、らしい。

文学の畑でいえば村上春樹、アニメで代表的なところは『ガンダム』の富野由悠季や安彦良和など。その出来の悪い部分、ジャンクな部分、ガラクタの領域であの「オウム」もまた、「偽の歴史」をでっち上げていた。そうやって「私」と社会との繋がりが分からなくなった若者、自分を繫ぎ止める時間や場所、歴史や地勢図を求めた人に手を差し伸べるかのごとく、そこに埋め込んだ自身の思想や価値観も隠すことなく提示した人たちが生まれ、その数々の「フェイクのサーガ」に取り込まれ、「世界観」に回収されていった受け手が沢山いる、と。

アイデンティティの足場として、マーケティングを駆使して用意されたイデオロギー、飲み込みやすい偽史に魅了され、偽史の隙間、「世界観」を穴埋めするかのように、受け手は受け手で二次創作、物語を想像することで消費していく。受け手の作った個々の作品は、大きな「サーガ」の一部となって、さらに多くの人を取り込んでいく……。

ここにも、消費を促進するメディアのいやらしさ、どうしても持ってしまう経済促進の機能、売り物としてのコンテンツという性質が入ってしまっている。ばら撒かれた記号や情報を元に、受け取った側が好き勝手に来歴や内面性を考えてしまう、想像してしまうし、それを受け止められる世界観、キャラクターなんだけれども結局は空疎なまま。

マーケティングを駆使されている、物語の構造やデザイン的な構造をよく研究されているからとても魅力的で、抜け出しにくいアリ地獄になっているというのも、ポイントだろうか。

メディアとの関係3. 記号 + 内面(身体性)

人工的なデザイン性(外側) + 私小説的な内面性、身体性の合体?

『メディアミックス化する日本』によると、日本のキャラクターの特徴として、非常に大きいのは、リアリズムの絵に複雑な内面、人としての身体性という組み合わせよりも先に、ディズニー的なデザイン、記号を組み合わせた作り物、資本主義の申し子みたいな外側に、内側に向かった日本の近代小説、生々しい私小説的な「私」を投影し始めたこと、だろうか。

どこまでも記号的、成長しない肉体を持たせたキャラクターに血を流させ、俳優としてのスターシステムを考案したのは、手塚治虫。非常に洗練された手法だったが、それだけに人工的な外側と釣り合いの取れない打ち出し方、キャラクターの生かし方に取り込まれ、引き込まれてしまった人たちも沢山出て来てしまった?

こうした考え方がとことん進んでいくと、だらしない内面、貧弱な内側なんて全て捨てて、作り込まれた外側だけの存在、中身を空っぽにした人間になりたいと考える、三島由紀夫のような人も出てくるようだ。徹底した空疎な様式美を求め、中身を消し去りたかったような人が出て来てしまうくらい、日本の「私」やその周辺にある近代文学というのは、非常にナイーブだったんだろう。

この、リアリズムと機能主義、人工的な機械主義のアンバランスさ、中身と外側とのバランスの悪さが、ますますキャラクターとしての異質な文化を作り上げてしまった、のかもしれない。

そこに逃げ込みたくなる複雑な装置

世界観もキャラクターも、どっぷりハマりたくなる魅力たっぷり

特にマーケティング手法やデザイン手法、アイドル的なプロデュース、コンテンツとしての中身の作り込みも万全な体制で用意されているサブカルチャーは、欲しくなる要素、求めたくなる要素がてんこ盛りになっていて、その消費で産業が潤って来た、成長してきた側面がいくらかある。

オタクたち、あるいはクリエイティブな嗜好がいくらかある繊細な若者たちをその中に取り込み、再生産する装置も作り上げ、なんなら好き好んで無償奉仕、プラットフォーマーにコンテンツもマネタイズも吸い上げられていても二次創作してしまう人たちまで、いくらか出て来てしまっている状況。

「他とは違う誰かになりたい」、「優れていることを証明したい」というズレた欲望を抱えた人間まで増幅してしまい、文章だけに限らず、イラストから動画まで、個人の創作活動を刺激し、ほとんどジャンクに近いものまで生み出させるだけの魅力を持った領域にまで育っている。

「甘え」を欲して引き込まれる、押し込まれる環境もあるだろうし、純粋に面白いからと引き込まれる人たち、飲み込まれる人たちもいる。そういう人を導きもすれば、歪めもして、先人たちの偉大さを見せつけながら、「オリジナルは作れない」と思うクリエイターも巻き込みながら成長している情報産業、虚構にも関わらず、急に冷ややかな目、強い力で尻をひっぱたくような仕打ちをされてしまうのは非常に悲しいんだけれども、一方で当然の行為でもあるんだろうなという理解も示したくなる。

好きなのに「嘘なんじゃない?」と言われちゃう

消費欲も刺激して来たのに、急に目を覚ませ?

そこへ引きずり込んで来て、楽しませて来た作り手、張本人たちだからこそのメッセージなんだろうけど、それにしたって伝え方というものがあるんじゃないの、と。まぁ、それぐらい強く引き込んで、強烈な痛みを与えないと変われない、「ごめん、これで気が付いて」という遺言めいたやり方も理解はする。

それでも、散々「好きになれ」とやって来たのに、ここへ来て「ごめん、やりすぎた」とか「虚構ばっかりは寂しくない? 虚しくない?」というのは、無責任もいいところ。虫が良すぎるというか、自分を守りすぎてるんじゃないの、と思ってしまう。

急に、「俺たちが悪かった」とコメントされても読まないし、目も向けないし、それはそれでただひたすら叩かれるだけなんだろうけど、その意識を下の世代に向けるんじゃなくて、上の世代と直接対決するために使って欲しかったかな。自分たちじゃ無理だから、「もう死ぬんだ」とやられたところでやっぱり嫌な思いは残るよね。

まぁ、それしか出来ないから仕方ないんだけどさ。

これからのコンテンツは、違う方向性を目指さなきゃいけない

文学の見直し? 商業主義に入り込みすぎない?

具体的には別の記事で語ろうと思うけど、2020年代も視野に入って来たこのご時世に、いつまで古い時代の考え方、価値観に囚われてコンテンツ作り、経済やビジネスをやろうとしてるんだ、っていうお話だよね。商業主義にだけ囚われたやり方、「いわゆるマーケティング」だけでなく、いわゆる「ニューアカデミズム」的なこと、頭で考えたことだけをやるんじゃないよ、ってことだろう。

「中身」をしっかりやろうよ、と。社会に目を向けて、文学やコンテンツに取り組もうよ、と。私小説以外の純文学、哲学の部分をしっかりやるべきなんじゃないか、っていうのが『さらざんまい』に込められた思いであり、山田氏の解説であり、実は2014年初版の大塚氏の『メディアミックス化する日本』だったりするんだろう。

それらを受け止めた上でどうするの? どう動いていくの? っていうのが、しっかり考えなきゃいけないことであり、具体的な形にしていく、経済的な結果として世に送り出していく取り組み、になっていくんだろう。ちゃんと準備して、ちゃんとやっていきたいなぁ……。

執筆者プロフィール

長谷川雄治(はせがわ・ゆうじ)

物書きな作れるWebコンサルタント。
HTML/CSSのマークアップやWordPressのカスタマイズ案件を経験し、サービス構築やブランディング、サイト設計や戦略プランニング、各種原稿、書類作成まで担う。
独自色の強いコンテンツマーケティングの人という立ち位置も見出だしつつあり、不足しているものを補うべく、日々実践中。

2019.08.28

2019.08.28

Loading...
Facebook Messenger for Wordpress