Vol.25 パラダイムシフト1「複雑系」と「両立」

2019.09.08

個別の具体的な話に入る前に、なんとなく感じている変化、前提としてまとめておいた方が良さそうなポイントを、個人的な偏見モリモリで展開してみよう。足がかりにしている文献やデータは特にないので、偏見や思い込みの域は出ないというのも予めお伝えしておく。

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ニュートン的な世界から、アインシュタイン的な世界へ

モデル化された分かりやすい世界から、不確定な量子、複雑系の世界に

力学、物理学の話をするつもりは一切ない。旧来の文化が生み出した価値観から、新しい価値観へガラリと変化したことの象徴として、「ニュートン」と「アインシュタイン」を取り上げている。社会の様々な変化、パワーバランスの変化など、彼らに直接関係がないものまで、この二人に託して語ってしまおう。

実際にニュートンが何を成し遂げたか、アインシュタインが何をやったかを少々棚に上げつつ、それぞれにどんなイメージを持たせたいか、どんなニュアンスで語っていきたいかをここで一旦整理しよう。

ニュートンアインシュタイン
  • 原子、分子、物質の世界
  • 時間も空間も固定
  • 位置もエネルギー量も計測しやすい
  • 因果律が存在する
  • 幾何学や代数学的。計算しやすい
  • (計算がしやすい)閉じた世界、死んだ問題
  • 単純化、モデル化された理想の世界
  • 頭の中で理解も計算もできる、分かりやすい世界
  • 量子(粒子と波の両方)の世界
  • 時間も空間も変化する
  • 位置とエネルギー量とを正確に計測できない
  • 因果がなくても何かが起こり得る
  • 計算が複雑。確率論的な要素あり
  • (計算は関係なく)開いた世界、生きた問題
  • 複雑で予測不可能な現実の世界
  • 頭の中だけでは処理しきれない、分かりにくい世界

ポイントは、「モデル化」や「閉じているかどうか」。計測機器や計算機器、学問が発達するにつれ、「どうやら世界は複雑である」と認識されるようになり、アインシュタインが起点となった訳ではないが、「複雑系」と言われる考え方が立ち上がって久しい。誤謬を目一杯含みながら、めちゃくちゃ単純に言えば「モデル化して計算したくても、モデル化外部からの入力、外部への出力を無視できない」ということ。

ニュートン力学における難題の一つ、「三体問題」が典型例。計算に影響を及ぼす要素、天体が2つ以内であれば簡単に計算できるのに、もう一つの要素が絡むと途端に計算が難しくなる、という問題。万有引力の法則を唱えた(とされる)ニュートンなのに、地球と太陽の関係に、月を加えると途端に解を求めにくくなるというのは、ちょっぴり皮肉。

おまけに、光はそれ以上分割することのできない粒子であると同時に、エネルギーが空間に広がっていく波、波動でもある二重の性質を持った物質、量子であるとアインシュタインが発見してしまった。相反するというか、両立が難しそうな二つの性質を、全ての原子や原子を構成する物質が持っている可能性がある、と。また、極々小さな量子は、位置やエネルギーを測定しようとする「観測者」にも影響されてしまうため、位置やエネルギー量を正確に計測できない「不確定性の原理」という性質も持ち合わせている。

粒子の性質しか持っていなければ、同時に一つの場所にしか存在し得ないし、時系列の影響も無視できないが、波の性質も持っているとすると同時に二つ以上の場所に存在し得る。時系列や因果律を無視した動きを取ることもできる。

ここに、外部との関係性も加わってしまえば、計算はますます複雑になってしまう。

逆の言い方をすれば、机上の計算、紙の上で計算できる状態の方が、「モデルケースに当てはめられる特殊な事例」、「単純化されたシミュレーション」。現実からかけ離れた実験室、正しく「机上の空論」を指すことになる。

現実的には、受験勉強や入学試験のような穴埋め問題、正解へ至るために限定された解ける問題、「死んだ問題」「閉じた問題」ばかりではなく、時々刻々と状態が変化する「死んでない問題」であり、外部からどんどん影響を受けまくる「開いた問題」であり、必ずしも正解が一つとは限らず、また解けることが保証されている訳でもない「生きた問題」であることがほとんど。

「世界がどうなっているか」を分解して考える、一部を切り取ってモデル化して計算する糸口を掴む、物理法則を導き出すために分かりやすくする、人が観測しやすい範囲で力学を考える上では非常に有益だったニュートン力学も、現実の世界を把握する、未来を予測していく時にはそれほど役に立たないのではないか。一度は自分でも否定したアインシュタインの力学、物理学、複雑系の方が正しいのではないかというのが、主に学問の世界で起こったパラダイムシフト。

この「モデル化」から「複雑系」への移行、「物質の世界」から「(粒子でも波でもある)量子の世界」への移行は、実はもっと多くの領域で起こっているのではないだろうか、というのが個人的な考え方の一つ。

経済活動の主導権は、供給サイドから需要サイドへ

頭で計算しやすい、「偉い人の思い描く合理的なモデル」は役割を終えつつある

2020年も目前にして「買い手主導」を掲げるのは遅きに失するどころか、周回遅れもいいところだろうけど、その意味を本当に理解している経営者、実践できている企業はどれだけあるだろう? まだ、ニュートン的な世界観、価値観で物を捉えている、社会や消費者を考えている人がかなりいるのではないだろうか。

私が今更述べるまでもなく、消費者は「経済的に不合理」であり、経済や未来は「予測不可能」。地理も経済も文化も社会も近付き過ぎ、文化と産業、学問と産業も歩み寄り過ぎて明確に線を引くことが難しいどころか、境界線をどんどんまたいでいく、学際的というか複数の領域が絡まり合う、外からの影響を受ける、あるいは与えるのが当たり前になりつつある。

需要サイド主体、相手に主導権がある一種の複雑系。アインシュタイン的な世界観が着実に出来上がりつつある、と言えなくないだろうか。

ここで大事になってくるのは、「モデル化」を飛び出していくということ。それから、「粒子だけ」でも「波(動)だけ」でもなく、両方の「量子」であるということ。供給する側に都合のいい理想の世界、実験室の中から考えていては通用しない、開かれた現実世界の話になるということ、モデル化に都合のいい一面だけを切り取って運用するやり方も通用しない、良い面悪い面を切り分けて特殊化された世界に逃げ込むことも得策ではない、ということ。

その一端が健康や食生活、エネルギー関連で顕著に出始めている。メリット一辺倒は隠れた大きなデメリットをもたらす、デメリットが一切ない手法は実は効果も薄い、よくよく調べてみたら「モデル化」をはみ出してしまうと違う事実が発覚する、etc……。

人工物の分かりやすくコントロールしやすいものばかりが、必ずしもいいものとは限らない。見えやすいもの、分かりやすいものばかりだけでは、徐々に豊かさを失っていく。目先の利益を追求し続ける、理想の空論だけを追いかけてみても、現実は何も変えられない。供給側が思うままに需要を動かす、消費者や一般市民をコントロールしようと思っても、そうそう都合よく行かない。

大きな変化、大きな転換点を迎え、とっくの昔に通り過ぎたのにも関わらず、支配者層や力を持つ方々、死んだ問題が得意なエリート連中は、これらに気がつかないか、自分たちの既得権益を守るため、保身に走るために変化の目を潰しにかかっている、空転させようと必死にミスリードを図っている、ように私には思える。

「おままごと」も「子供騙し」も、もう終わり

頭の中でこねくり回した、分かりやすい「〜すぎる」は通用しない

商業主義的に走り過ぎて、供給サイドからしか一般市民、消費者を見れていない商品やサービス、受け手を小馬鹿にした商売というのは、これからあまり受けないだろう。

一方で、良いことしか表現されていないもの、理想論しか入っていないものも、警戒される、あるいは忌避されるというか、長続きしないと思った方がいい気もする。あまりにも「綺麗事すぎる」ものや「利他的すぎる」ものも嘘臭いというか、前時代的な匂いを感じてしまう。人間の手でバリバリに作り込んだ「作り物すぎる」ものもアレだし、究極のオーガニック「自然由来すぎる」ものも、なんかね。安全安心を前面に押し出すのも、個人的にはプッシュしづらい。

「毒にも薬にもならない」のだから、「毒」= 多少は危ない要素を含んでいないと、身体には良くない気がする。病気をしないと免疫も得られないし、突然変異のきっかけをつかむこともできない。リスクを取らずに安全策にばかり走ってしまえば、現状維持と同じく衰退しか待っていない。みんながみんな、「居心地のいい安全策」を選んでいては、将来的に何も生み出すことができなくなる。

大事なのは、良い面も悪い面も「両方含有している」こと。ある程度のデメリット、例えば「多少、値が張る」とか「少々、取扱注意」とか「ちょっとクセがある、独特のニオイがある」といった要素を持っている方が、より現実的なのではないだろうか。

頭が安心できる分かりやすい要素、安心して受け取りやすい人工物一辺倒にしたい気持ちも分かるが、残念ながら身体という容れ物は現実、物質と地続き。そこを、理想論の塊だけで何とかするというのは道理が合わない、予測しにくい齟齬をもたらすだろう。だったら最初から、危なさやデメリットを分かった上で、現実を取り入れた方が賢明ではないだろうか……。

分かりやすさ、見えやすいもの一辺倒も、要注意

デジタル化、サンプリング化で取りこぼしてしまう「それら」も大事

今まで計測しにくかったものが見えるようになる、計測や計算できるようになる、データにできるというのはメリットも多い一方、デメリットがない訳ではない。データにしにくい部分、どうしても取りこぼしてしまう領域というのが存在してしまう。

これをゼロにする、取りこぼしが出ないように工夫してみても、早々簡単には解決できまい。概念上の要素、精神的な要素はそもそも対象外だろうし、ダークマターみたいな物理的にも計測が難しいものも存在している。

見えないから存在していない、軽視して良いということではないし、必死に見えるようにしようとする努力も多分、正解ではない。ネガティブとポジティブ、物体と影、コンテンツとコンテキスト、文章と行間など、見えるもの、分かりやすいものがあるから見えてくるもの、把握できる「分かりにくいもの」もある。

これも、多分「どちらか一方」を切り取るのが最も危うい。見えるものも見えないものも、両方持っておく。主体とそれによって出来る影も一体のものとして考えておく。主客とその場の総合的な状態に思いを馳せるというのが正しい考え方なように思う。

でも、時間も空間も実在しない?

あるのは「意識」と「枠組み」だけ?

詳しくは分からないが、最近の研究では、空間どころか「時間」も存在しない、実在しないのではないか、と言われ始めているらしい。時間というのは人間が作り出したもの、社会が作り出したものであって、物理的な物差し、モノではないのだ、と。

「意識」も「意識」で物理的に存在しているものではない。あくまでも、「脳」(もしくは身体)という枠組みの中で走っている電気的な活動、「流れ」の中に立ち上がっているものであって、寝ている時には消えている。消えているのに、寝る前の自分と翌朝起きた自分は同じものだという認識を、なぜか持つことができている。

だから、もしかしたら着実に「在る」と言えるのは何もないのかもしれない。なんらかの「流れ」とそれを納めるための「容れ物」だけが実在している? 流れをコンテキスト、容れ物をコンテンツということもできるし、容れ物の中身になる「流体」をコンテンツということもできる。「コンテンツ」は容れ物の形に沿うということは、容れ物の形が全てを決める、とも言える。

「容れ物」=「ルール」であり、物理法則でもあるのだろう。どのルールに沿うかは中身が決めるのだとしたら、自分たちは自分たちで思っている、認識している以上に自由なのかもしれない。インターステラー的な四次元的なこと、SF的な多次元認識というのも、案外簡単にできるのかもしれないね。

脱線しまくったけど、大きな大きなパラダイムシフトが今の世の中には起きている、ということ。そのパラダイムシフトは「複雑系」であり、より「現実的」であるということ。供給側の理想論を押し付けていないか、消費者を合理的なものとして捉えていないか、一面だけを持った商品、サービスを展開していないか。そこが今後の一つのポイントになっていくのではないか、というのがこの記事でお伝えしたかった。

ここが未だにニュートン的、実験室的なままの人たちがあまりにも多い気がするので、ここを見誤らないように考えていきませんか?

執筆者プロフィール

長谷川雄治(はせがわ・ゆうじ)

物書きな作れるWebコンサルタント。
HTML/CSSのマークアップやWordPressのカスタマイズ案件を経験し、サービス構築やブランディング、サイト設計や戦略プランニング、各種原稿、書類作成まで担う。
独自色の強いコンテンツマーケティングの人という立ち位置も見出だしつつあり、不足しているものを補うべく、日々実践中。

2019.09.08

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