Vol.26 分かり合えない人もいる。実力行使も選択肢

2019.09.08

個別の話を補強する材料を、もう少し出して行こう。この話題も単独で扱っておいた方が伝わりやすいかと思うので、今回も文献やデータをすっ飛ばして、好き放題に斜め上の自論を展開してみる。

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分かり合う気のない人がいる

既知の枠から出てこない、歩み寄れない人がいる

言葉を尽くせば分かり合える、とことん話し合えばいつか伝わる。そういう理想を掲げる、優しい世界を夢見るのも結構だが、こちらが分かり合いたいと強く願っても、相手が分かり合おうとしていないケースもある。

学生時代に学校で教えられたこと、教科書に書いてあったこと、あるいは18歳までに身につけた偏見のコレクション「(その人の)常識」を大事に守り、分からないこと、知らないことを畏れる、拒絶する。今の自分、今までの自分が知り得たものを大事にしすぎて、それを脅かす存在を攻撃してくることもある。

自分が正しいーー。そこから一歩も出ようとしない。学校で教えられたことが正しい、教科書が絶対、「(偏見や先入観に過ぎないのに)常識でしょ」と振りかざす。相手が間違っているから、矯正してあげよう。あるいは、自分の方が上だ、下だ。大事にしてきたセルフイメージも揺らぐから、防衛反応としてコンフォートゾーンから出てこない。

これでは、分かり合いたくても分かり合えない。

「知らないこと」が悪いことではないということ、学力や知識量が人間的な価値に結びつくものではないということ、「分からない」は怖くないことをしっかり伝えていく、知ること、変わることが楽しいこと、喜びがあることも伝えていければ、分かり合える人になる可能性もゼロではない。ただ、何かの拍子に意固地になってしまったり、プライドをどうすることもできないまま大人になってしまった場合、ある程度の人生経験や年齢を積み重ねてしまったり、一定の社会的地位を得てしまった場合も簡単ではない。

教師と生徒の関係なら、根気強く分かってもらえるように努力することもあるだろうが、「なぜ、そこまでする必要があるのか」と途中でやめるケースの方が多いだろう。

ここまでは主に個人が要因の場合だが、それ以外のファクターもある。

周囲の環境が要因で、分かり合えないこともある

所属している家庭や集団、信仰している宗教の兼ね合いも関わってくる

上記で掲げた「学校」も一つの環境要因だけれども、それ以外の環境的な要因、社会的な要因、同調圧力のようなものも、「分かり合うこと」を阻害している可能性はある。

信仰の自由はあるし、何を信じるか、ご家庭や地域でどんなことを教え込むかも当然自由だけれども、それによって集団の外、所属している文化圏の外がありのままに見れない、色眼鏡をかけた状態、バイアスがかかった状態でしか見れないようになるのは、それらの集団を内包する社会としては、好ましくない。

とはいえ、言語的な要因もあるだろうし、文化的な要因もあるだろう。言葉が通じないだけならまだしも、言葉が通じても意味が通じない、意味が通じたとしても受け入れるつもりがない。あるいは向こうに都合のいいように解釈される、向こうの物差しやさじ加減だけで判断されてしまうようなら、「分かり合う」のは簡単ではない。

これも時間をかけて懇切丁寧にやっていけば、いつかは分かり合えるのかもしれないけど、個人の場合も同じで、無理に分かり合う必要もない。分かり合えない人たちもいる、受け入れられない価値観、考え方もある。すり合わせができる場合もあるし、できない場合も残念ながら存在していると思った方がいい。

極端なケースは、名作SF『幼年期の終わり』?

「違う生き物」になると、分かり合えない

アーサー・C・クラークが遺した不朽の名作SF、『幼年期の終わり』。従来の「人」とは違う生き物に進化してしまった次世代は、旧世代である親たちとは意思の疎通が取れなくなる。それが良いか悪いかは別にして、突然変異や進化というのは「そういうものだ」という点では、受け入れるしかない事例であるといえる。

「分かり合えない」という観点からはかなりズレるが、「フランケンシュタイン」みたいなものもあるし、『ブレードランナー』、『電気羊はアンドロイドの夢を見るか』で描かれたアンドロイド、レプリカントと人間の関係みたいなものもある。私の屋号の元ネタ、「仮面ライダー」をはじめとする数々の石ノ森ヒーローも、「分かり合う」や「受け入れてもらえるか否か」というテーマは取り上げられがち。題材自体は、さして珍しいものでもないだろう。

「分かり合おうとしたのか」という観点で言えば、『新世紀エヴァンゲリオン』や、『機動戦士ガンダム』なんかも、「人との交わり」云々を延々と描いている、とも言える。それぐらい根深いテーマなんだけれども、ずーっと続いているということは「(現状では)分かり合えない」が答えだからだろう。

人と人とがいろんな垣根を超えて分かり合う、手を取り合って理解し合うというのは、まだしばらく解決しない問題だろうから、現代の日本社会においても、過度に「分かり合える」とか「言葉を尽くせば」という期待は持たない方が健全だろう。

最初から「棲み分け」る。一緒にしない

「クラス」に似た概念を取り入れてみる

日本ではあまり浸透していない「クラス」。プログラミングの言語や学校の区分ではなく、イギリスの階級を表す方の「クラス」。アッパー/上流、ミドル/中流、ワーキングクラス/労働者階級の3分類。さらにミドルはアッパーミドルとロウアーミドルに区分される。身分上の差別というよりは、社会的な生活の違い、文化的な水準の違いが表れるような一つの区分、だろうか。

今の日本でそのまま導入してしまうと、勘違いの成金アッパークラスが多くなりそうなので別の問題を含んでいる。肝心なのは、経済的な物差しで切り分けるのではなく、内面の豊かさ、文化的な素養の方を重視するということ。商業主義の一義的なものの見方だけで、何がいいか悪いかを見る癖がつきがちな成金をアッパークラスにしてしまうと、真っ当な文化や価値観が育っていかない。伝統に根ざしているか否か、革新的であっても本質を捉えているかどうか。そこを見誤ることなく評価できるかどうかが重要なポイント。

所得の問題、値段の問題で切り分けるのではなく、文化や価値観の面で通じ合えるかどうか。その観点での一定の棲み分け、線引きというのは、色んなところで導入したっていいような気がする。その方が、お互いにいい売り手、いい買い手で居られるんじゃないだろうか。

分かっていない人を顧客にする、あるいは分かる気もない人を相手にすることが、もっとも無駄というか、お互いに意味のない時間、投資になりかねない。大切にしたいこと、優先したいことがある程度揃えられる人、訴えたい価値観やメッセージが通じ合える人かどうか。そこが揃っていない、ズレている人に「分かってもらう時間を割く」のは、金銭的にも精神的にも余裕のある時だけでいい。

分かってもらえない人には、分かってもらえない人用の商品、サービスを用意しておく。あるいは最初からお引き取り願う。そういう棲み分けを、最初から露骨に示しておく、あるいは裏で小馬鹿にする、ブラックジョークをかまして大金せしめるぐらいのことは、もう少し一般的になってもいい気がするし、その方がみんなで平和に暮らせそうな気がするんだけれども、そんなふうに考えるのは私だけ、なんだろうか。

即物的なタイプ、金金している人たちもいる

「文化」や「情報」は不要な、旧来の資本主義者たち

棲み分けをもう少し具体的に見ていくと、兎にも角にも「見える価値」、「分かりやすいもの」しか求めていない人たちが存在している。この人たちと、説明すれば分かってくれる人、あるいは「こだわりの強い数寄者」の概ね三段階ぐらいが、それぞれのジャンル、それぞれの商品やサービスの周辺にいてると思っていいのでは?

その人の優先順位や価値観、興味でも多少は変わるけれども、最も下の層、「兎にも角にも、今すぐ」のタイプは「分かり合う気がない」層と割と重複しがちな気もするので、このタイプには次から次へと新しい商品やサービス、薄利多売の一手でいいんじゃないだろうか。中身は大して変える必要もなく、目先の素材やフレーバー、色味を変えるだけで十分だろう。手間もコストもかけず、とことん手数でいけばいい。

「無理に相手をしない」という手もある。思い切って、コアな「分かってくれる人」とその手前にいる人たちだけを相手にするのも、有効な手段。いいお客さんは大抵、こちらのタイプだろうから、時間を割くのもこちらの人たちだけでいい。

飛び交う金額には注目しすぎないこと。どうせ、表面的な価値しか見ていない。中身は二の次三の次、「目新しさ」と「素材」「(モノとしての)希少性」ぐらいしか見ていない。「価値の分からない高価なモノ」もたまに掴ませたっていいのでは?

この類の人たちに、その商品やブランドの背景、物語を語って聞かせる、職人技の価値なんかも分かりようがないから、分かってもらおうとする必要はない。思い切って棲み分ける方が賢明だろう。

言葉より行動、実力行使が必要な場合もある

問答無用で痛み、破壊が必要な場合もある

「分かってもらってから行動する」では間に合わない場合、あるいは「分かってもらえるけど、それでは不十分な行動」になる場合もある。精神的や肉体的、あるいは経済的に痛みを伴う場合や、なんらかの破壊や廃棄を伴う場合は、問答無用で実力行使を選んだ方がいい時もある。

もちろん、「法律に違反しろ」とか、「どんどん暴力を振るえ」とか、「人間関係を無視してやりたい放題やれ」というつもりはない。そこをきっちり踏まえた上で、「それでもやらなきゃいけない時」、「事後でも説明すれば分かってもらえそうな時」や「自分にも一定の道理がある、言い分に勝ち目がある」場合は、相手の言葉や許可を待たずに行動したっていいんじゃないだろうか。

日本の官僚もサラリーマンもフリーランスも、如何にもこうにも、ここが弱い。善良な人が多すぎるというか、長いものに巻かれるタイプが多いからか、組織の力に潰されてしまうからか、必要な破壊、痛みを伴う行動というのがそこまで多くない気がする。

今の日本に必要なのは、前例を打ち破る破壊力。不要になったものを問答無用で葬り去る強引さ、なんだけれども今の体制では難しいんだろうな。理解を求めることに時間を割きすぎて、動けなくなっている人や組織、仕事があまりにも山積しすぎているような気がするんだけど、これも私だけ、なんだろうか?

分かり合うのを、どこかで諦めよう

分からず屋とか緊急時には、言葉だけでは間に合わない

言葉を尽くして分かり合えた方が、無用なリスクを取らずに済むし、責任の所在も曖昧にできる。平和に解決できるんだろうけど、時間がかかるだろうし、本当に分かり合えているか疑問符がつく時もある。

分かり合おうとしない人は、どこかに変化を拒むところを持っている。自分が変わらないだけでなく、周りにも変わらないことを求め、それが成長を阻害する要因になることもある。そんな人が、言葉の上で分かり合ったふりをしたところで、後でひっくり返されたり、「聞いてなかった」と無茶苦茶なことを言い出すことも珍しくない。

自分は自由や権限を求めるくせに、相手のソレらは一切認めないダブルスタンダードな人もいるし、自由を求める割りには過去や前例、自分より強い人に対して隷属的になる人もいる。極端に悪い面だけをクローズアップしたり、いい面だけを切り取ったり、素直に物事を見れない性質を見せることもある。

こんな人に時間を割いても、ムダ。可能な範囲で、行動しよう。分かり合うことを諦めて、自分にできる範囲の実力行使に打って出よう。言葉の方が早いこともあれば、言葉だけでは時間がかかりすぎることもある。動いた方が早いなら、思い切って動いてしまう、分かり合うのを諦めるのも検討しよう。

執筆者プロフィール

長谷川雄治(はせがわ・ゆうじ)

物書きな作れるWebコンサルタント。
HTML/CSSのマークアップやWordPressのカスタマイズ案件を経験し、サービス構築やブランディング、サイト設計や戦略プランニング、各種原稿、書類作成まで担う。
独自色の強いコンテンツマーケティングの人という立ち位置も見出だしつつあり、不足しているものを補うべく、日々実践中。

2019.09.08

2019.09.08

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