Vol.38 大胆な発想で、常識を疑う

2019.09.25

生き方や暮らし方の革新を待たず、人口の変化や社会構造の変化により、社会のカタチ、街のカタチも見直していくタイミングなのに、なぜか「スマートシティ」やら「車社会」やらのキーワードばかりが先行している。それに対する疑問、もやっとする気持ちの正体を整理して、今回も根拠なしで好き勝手に方言しよう。

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スマートシティ、デジタル化は結構なんだけど

そもそも「どう暮らすか」、「どんな街にするか」が先では?

地方創生、衰退していく地方を活性化させる、行政活動を行き渡らせるために、スマートシティ、コンパクトシティを掲げて将来を考える、新しい打開策を検討するのは良いことだろう。デジタル化を導入し、行政や事務手続きを効率化して、日々の業務にかかる負担、コストを削減する、効率の良さと暮らしやすさとを両立させる方法を考える、行動していくのも立派な行為だと思う。

今、その場所にある材料、人材や企業、学校を利活用する、特区を申請して何らかのテーマを軸に地域活性化を狙う、補助金や助成金の導入、新規移住者を募る、企業や大学の誘致を狙うのも、現状維持に比べれば遥かに有用な時間の使い方だろう。

しかし、お題目やキーワード、デジタル化という手法が先行し過ぎていて、その前に取り組むべきこと、その地域、その場所で人はどう生きるか、どう暮らすべきかが、きちんと議論されているとは思えない。

今の街のカタチはどうで、これからの街のカタチをどうしていくか。なぜ、今の街のカタチになっていて、どこを変えないといけないのか。その街に相応しい生き方、その街で輝く人というのは、どんな人なのか。どんな人なら暮らしやすい街なのか。歴史的な経緯、地質学的な経緯、地場産業として失ってはならないものや文化など、多種多様な角度で材料を集めた上で、「どんな街なら暮らしやすいのか」をより多くの人を交えて考える。その上で、どんな見せ方をするか、どんな打ち出し方をするか、みんなで足並みをそろえてプロデュースしていく、ブランディングしていくことが必要なのではないだろうか?

「車がないと生きていけない」も、ゼロベースで再検討

「車産業」、「車社会」ありきで地方都市が作られている可能性も、疑ってみる

重工業、自動車産業を振興すること、全国のインフラを整えるため、高速道路や幹線道路、各地の交通網を発達させるために、「車があると生活しやすい」ように、街や社会を作っていった、デザインしていった可能性はゼロではない。時計の針、考え方の刷新が早い都市部や都心部、再開発も施されやすい大都市圏では、そういう一昔前の考え方からいち早く脱却し、自動車がなくても生活しやすい生き方、暮らし方も容認できるようになりつつある。

それでも、ノーマイカーで不便がないかと言えばウソになる。免許証ほど入手しやすく、便利な身分証明書も中々ないし、自動車が運転できれば公共交通機関に頼らず生きていけるし、子どもや高齢者がいる生活や、沢山の荷物を持って移動する場合、天候不良の場合もマイカーが便利だろうし、細かな送り迎えなどにも、バスや電車よりもマイカーが上だろう。

車社会というか、「車があった方が生きやすい」ように設計された働き方、あるいは暮らし方、あるいは街のカタチがあまりにも自然に刷り込まれていて、前提条件に対して疑問を持つ人が多くない気がする。だから、後期高齢者の免許返納に対して、「都会なら車はいらないだろう」とか「田舎には無理だ」みたいな議論が先行しやすい? まず最初に検討すべきなのは、「車がなくても暮らしやすい世の中、街のカタチとは?」だと思うんだけど、そこに棹をさそうとする人をあまり見かけない。

ゼロベースで考える癖を持つべきでは?

与えられた「常識」や掲げられた「フレーズ」の向こうを考えませんか?

日本人が従順すぎるのか、それとも私みたいな奴が例外的すぎるのか、割と皆さん、「学校で教えられたこと」や「新聞テレビで言われていること」や「親や地域の人に教わったこと」を信じすぎというか、敬虔な信仰心を持ちすぎなのでは? 偉い人や賢そうな人に外から持ち込まれた、一見新しいように思える「横文字のフレーズ」にも弱すぎる、素直に信じ込む人が多すぎる気もする。

メディアリテラシーや情報リテラシーの問題というよりは、与えられた情報、前提条件を検討する訓練ができていない、そういう機会を持たされることが少なかった、あるいは異論を唱えようとしたら痛い目にあった経験があるなど、緩やかな同調圧力、異論を封殺する空気に勝てない人もいらっしゃるんでしょう。

考え方や表現においても、「出る杭は打たれる」。表現の自由を標榜する割に、「その社会(コミュニティ)のスタンダード」に沿わない、あるいは「(長いものに巻かれなさすぎる)意見や、前例、前提を飛び越えた異論」は、バンバン潰される。空気を読むことを求めすぎ、求められすぎて、難しいことは考えない、疑問を抱いたとしても口を閉ざして考えることもやめてしまう、という人も少なからずいらっしゃるんだろうなぁ、とも。

でも、大切なのは、本質に立ち返って考えること。「そもそも」を捉え直して、そこから問題を考えること。何が問題か、解くべき問題を見極めること、問題解決よりも問題発見に力を注ぐこと。そして、一度問題を見つけたら、その問題が根治するまで対処療法じゃなくて、根本治療をするように取り組むこと。なのにも関わらず、「現状維持」が優先されてしまうのは、日本の良くないところ。強いもの、古いものにも立ち向かう、きちんと対等に議論して客観的に価値のある、パブリシティの高い回答、共通の答えを出していくという、まっとうな民主主義を改めてやるべきなんだけれども、それらをやるには社会の風潮、報道関係や教育関係の清浄化と正常化が必要になるんでしょう。

街づくりには、「公共性」と「プロデュース力」が重要になってくる

強いリーダーシップとともに、共創できる調整力、「みんなで街を作る」という公共精神

これからの街づくり、社会づくりには、「そこでどう生きるか」とか「どんな人が暮らしやすい街を作るか」といったプランニング、「その街をどうプロデュースするか」という考え方が欠かせないと思う。現場で実際にどう差配するかというディレクション、デザイン能力よりも、その街をどう生かすか、どういう方向に持っていきたいかという、強い意思を持っていること、確かなビジョン、未来像を描ける能力があること。必要なものとそうでないものの取捨選択がきちんとできる人、それに乗っかっていける、指示できるだけの人が集められること。そのカリスマ性の有無も、重要になってくる気がする。

この時、できれば複数のプロデューサーが立ち上がってくれると、モアベター。Aさんは、「こういう人が暮らしやすい街にしたい」と提案し、Bさんはそれとはまた違う観点からの企画を提案する。それらをぶつけ合ってもいいし、区画を分けて共存してもいい。複数のプロデューサー、リーダーが共存しながら、魅力あふれる街をプロデュースする、みんなで作っていく。

どんな産業を主要なものにするか、どんな伝統産業、文化を守っていくか。そこに住む人たちのために、どんな公共事業が必要か。どんな玄関口が必要で、どんなデザイン、形を施す必要があるのか。それらを、ゼロベースで改めて考えて、そこに参加する人たちが全員で、普段の生活、「ケ」をいかに豊かにするか。いかに楽しさに満ちた街にできるか。そこを今後は問われていくように思う。

今の街造りではどうしても、全体的な協調、バランスが取れない。自分たちで好き勝手にあっちこっちへ向きがち、外からやってくる人のことも、その街で暮らす人の導線も全く考えずに作っていくから効率が悪くなる。そういった効率をあまりにも狙って作るのも気持ちが悪いけど、「公共」を考えずに、一人一人があまりにも好き勝手に好き放題やるのも、やっぱり違う気がする。

全国各地にある残念な駅前、とか自己主張ばかりの路地裏とか。全体の連携、協業をまるっきり考えない自由競争というのは、もうそろそろ卒業したっていいんじゃない? みんなでちゃんと考えて、より良い未来を作っていければいいんだけれど、そんなふうに考えるのは、斜め上なんだろうか……。

執筆者プロフィール

長谷川雄治(はせがわ・ゆうじ)

物書きな作れるWebコンサルタント。
HTML/CSSのマークアップやWordPressのカスタマイズ案件を経験し、サービス構築やブランディング、サイト設計や戦略プランニング、各種原稿、書類作成まで担う。
独自色の強いコンテンツマーケティングの人という立ち位置も見出だしつつあり、不足しているものを補うべく、日々実践中。

2019.09.25

2019.09.25

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