2020 やっていきたいこと Vol.1 2020 やっていきたいこと Vol.1

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はじめに

キャッチコピーを微妙に変えて「個性の味方」としたけれども、それに対する講釈をあまりしていなかったので、まずは大枠の部分から触れていくことにしましょう。今後やっていきたいことのテーマ、仮面ライターとして追求したいのは「変わり者の自由と安心」。

変わり者は意外と不自由

多数派や前例からの抑圧される、もしくは自分から忖度して合わせる、擬態する

変わり者、個性的である時点で十分に自由なんじゃないの、と思われそうだけど、それで伸び伸びしてる変わり者は、今のままでもあまり辛くない。変わり者として歴戦の勇士か、変わっていることをあまり重要視していないか、分かりやすい、伝わりやすい、利益になりやすい部分で変わっているかのいずれかだろう。そうでない変わり者の方が多数派ではないだろうか。

「普通」に合わせる、擬態するキツさ、リソースの割き方は人それぞれというか、状況によって全く異なるだろうし、本音と建前を使い分ける、TPOやその時の役割に応じて素のままとは違う「何か」を演じるなんて、変わり者以外も皆さんやられている。擬態、演じること自体が悪いとは思わないし、それによって得られている自由もなくはないけど、周りから思われている以上にその自由、裁量は小さい(という変わり者がチラホラいそう)。

出る杭は打たれる、同調圧力がやや強い現代の日本。お役所、官僚、年長者が強くて前例主義、イデオロギー優先が徐々に強くなり出している気もするし、その中で「異物」でしかない変わり者、個性的な人が真の意味で伸び伸びする、自由でいられる瞬間なんてほとんどない。イノベーションにつながりそうな才能、取り組みも危険視されて潰される、あるいは経済的な価値がないと無視、抑圧される。

変わっていること、人と違うことが個性、良いこととされ、認められるようにもなってきたけれども、まだまだ不十分。社会や空気、生活の場、仕事の現場は変わり者にとって生きにくい。

英雄と怪人は紙一重

ブレイクスルーは「変わり者」(のやりすぎ)が起こす。

群からはみ出した存在、見慣れない奴、一風変わった傾奇者は、そうでない人からしたらグロテスクな異物だろう。時に恐れ、時に虐げ、時に追い出す。益をもたらしたとしても、群の脅威になると、平時になったら追い出す、冷遇する。それが英雄か、怪人、化け物になるかは見る側の都合次第。結局、同一の「よく分からない存在」には変わりない。

でも、ブレイクスルーやイノベーションは、はみ出した人、変わっている人でないと起こせない。前例主義に凝り固まりがち、科学や現実より、教科書に書かれた幻想を優先する人たちだけでは、明日は昨日の続きにしかならない。今の暮らし、今の価値観を破壊して変化をもたらすには、それが当たり前の人でないとやり遂げられない。

それも、変わり者がいいように利用されているうちは無理だろう。変わり者の変わっている理由、「自分の世界」を突き詰める、やりたいようにやりすぎる、時間もお金も充分に投入できた時だけ、周囲の理解や支持者を得られたときだけ、ブレイクスルー、イノベーションは起きる。

「変な奴」に首輪をつける、自分たちに合わせて振り回しているうちは恐ろしいイノベーションは起こらないが、それでは未来もより良い社会も訪れない。今の日本というか、これからの世界に必要なのは強烈な変な奴、変わり者と、その変わり者がやりすぎるだけの環境、自由を認める、あるいは与えること。そういう方向に行かなきゃいけないんだけど、結局抑え込みたい側の方がいつまでも強すぎる、対話する気なんてないところが、一つの大きな病理。

かつての日本は、もっと「構わず」だった

「変な人」でも気にされなかった、抑圧されすぎることはなかった

今の日本も、一神教の国、タブーの多い社会からすれば十分に自由で、タブーが比較的少ない社会だろうけど、その土台になったかつての日本は、きっともっと自由だった。というか、他人が何をしていようと構う必要なんてなかったように思える。だから、様々な芸能や文化が生まれ、多様な食生活、多岐にわたる職人が残ることになった。

「食えるか食えないか」なんて考えないで、ひたすら「自分の世界」を追求し続けた先人がたくさんいる、それを変に抑圧しすぎることなく共存できた、認めるだけの社会があった。その先にある今の日本なんだけど、官僚やメディアの界隈で、「正しくあること」や「歪んだ資本主義」を求めすぎている気がする。

そこに対する警鐘、警告の一つが「脱亜論」であり、「国学主義」、「鎖国」だったんだろう。マルクスや孔子の亡霊、フランクリン・ルーズベルトの置き土産に縛られすぎなのを、一つ一つ解消していかないとダメなんだろうね。

変わり者が伸び伸びするには、「安心」も大切

「みんなと違う」は怖いし、不安。経済的な部分もいつも気になる

抑圧の有無に限らず「擬態」をするのは、変に攻撃されたくないから。攻撃されたくない理由は心理的な面もあるけど、最終的には社会生活に響いてくる、資本主義的な部分で「生きられなく」なるから、かな。

変わっていることが周知されている、認められている場合はそうじゃないだろうし、変わっていることが収益に結びつく人たちなら気にしないんだろうけど、その場合も妬みや嫉みが怖かったりするだろうし、悪目立ちはしたくない、特定の領域以外では隠れていたいという「変わり者」も沢山いらっしゃるのでは?

世の中の「変わり者」の大半は、きっと「分かりやすく」ない。今の資本主義的に、「商品価値がある」人や「作家として価値がある」人も多くない。考えていることが普通じゃない、使う言葉が普通じゃない、相手の普通が普通に分からない、相手に合わせると「違い」が消える。結局、生活を潤す仕事になることはなく、趣味の範囲で楽しむしかなくなる。でも、いつまでも趣味では時間はそんなに割けないし、「変わっていること」が世の中的にどれだけいいことなのかも十分伝わらない。

それでは結局、「変わり者」は「普通の人」へ擬態して、擬態する分のリソースを使う、または自発的に押さえ込みをかけてスペックを落とす、言いたいことを飲み込んでストレスを抱えて、足りない時間で自分の世界と戯れるだけ。イノベーション、ブレイクスルーは訪れない。これは、非常に大きな損失なのではないだろうか。

自由にやる、やりたいようにやるには社会的な環境、経済的な豊かさも必要になってくる。「変わっていること」が武器になる、豊かさに結びつくような関係性は探れないか。コミュニケーションを見直すことで少しでも変えることができないのか。そういうことを、一つずつ、あるいは1人ずつ2020年はやっていきたいなと思っていたりします。

伝え方と伝える相手を変えることで、自由と安心とを確保したい

「こうやれば行ける」を確立、実証して数字で示したい

「分かりやすいことはいいことだ」、「パッとわかる方がいい」、「140字で」みたいなこのご時世。色んな自主規制、色んな忖度を求められる世の中なんだろうけど、「分かり難さ」とか「時間をかける」とか「デジタルではできないこと」みたいなのを追求してやろうかな、と。

伝わりにくいなら、伝え方を変える。時間をかけられないなら、聞いてくれる相手、分かり合える相手を探す、その人に伝える。伝える相手をきちんと選ぶ、顧客、観客をしっかり定義する。その上で、ロングエンゲージメント、顧客とともに生きるビジネス、みたいなものも考えていく。

情報発信を手伝う側が得意なやり方、伝えやすいやり方を選んで、伝えなきゃいけない部分を削ぎ落とす、腐りやすいからと切り落とすのは、違うと思うし、メディアのやり方、広告のやり方、広報がよくないから今に至ってるとも思うし、そこをしっかり組み立て直して、何らかの成果、なんらかの結果に結び付けられないかを探っていきたいし、実証もしたい。

そこらへんにいっぱいある便利なツール、ノウハウも使いこなせるようにして、「変わり者の自由と安心」を見出せる「個性の味方」になりたいと思っている、2020年です。

長谷川 雄治

長谷川 雄治はせがわ ゆうじ

2013年から、仮面ライターを掲げて活動中。
物書き&Web制作、コンサルティングが本業だと思い込んでいる、ただの変な人。