アフターコロナで思ったこと1 アフターコロナで思ったこと1

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はじめに

医学的な科学的根拠、経済学的な統計的根拠など、全て「コレ」という確かなものには基づいていないこと、全てにおいて責任を持てるような専門家でもないことをご承知の上、素人のバカな考えとして(ほぼ間違っているという認識の上で)暇つぶしにでもお読みいただけたら幸いです。公的な情報、正確な情報については、専門機関ならびに専門家の情報を当たるようにしてください。

新型コロナに対する、個人的な雑感

わざわざ罹りに行かないと、罹患しない。撲滅も可能?

罹患後の危険性を一旦棚に上げると、新型コロナウイルスそのものは「ヤバい伝染病」とはあまり思えない。全ての情報を追えてはいないものの、感染しやすい傾向としてはいわゆる三密が回避されていない場所、もしくは病院、感染後に経路を明らかにしにくい場所が主、残りは「三密回避が甘い」と「手洗い等の自己防衛が不十分」あたりが従?

今、国内で蔓延しているウイルスの場合、市中で二次感染、三次感染が拡がってしまう「手の打ち用がない」感染症ではなく、危うきに近寄らなければ罹らない、対策しやすいウイルスに思える。入国制限、鎖国をどこまで続けられるかにもよるものの、収束ではなく終息、撲滅も不可能じゃない気がする。

三密を回避する、自己防衛を徹底する。後は医療現場の皆さんの頑張り、新薬開発に取り組んでいる皆さんの取り組みを見守る、阻害しないようにする。ゆくゆくは、罹患後の肺にも有効な治療方法が見つかるようなら、なお安心だろう。

フランク・ライアンの著書、『破壊する創造者』などを参考に考えると、よほど人為的な変異が加えられない限り、新型コロナウイルスの毒性は弱まっていくだろう。ウイルスが生きていくためには宿主が必要で、宿主とともに「双利共生」関係を築くためには、宿主を殺すような毒性は捨てなきゃいけない。免疫機構と敵対しないように振る舞えた新型コロナウイルスが、ヒトのゲノムと文字通り「withコロナ」になり、一体化して生きていくことになる。

風邪という病気は無くならないし、コロナウイルスも無くならないけど、今回の「新型コロナウイルス」に限っていえば、意外と早く撲滅できる、長い時間をかけて病気と認識されなくなる。そういう考えを基本的に持っている。

「Withコロナ」の時期は多分短い

ソーシャルディスタンスも新しい生活様式も、一過性に終わる

新型コロナウイルスに対して対策をとりながら、「コロナとともに」日常生活、経済活動を送る期間というのは、案外短いと考えている。鎖国政策を早々に打ち切ってしまう or 強毒性に変異した第三波が襲来した場合はこの限りではないが、このままユルユルと医療崩壊を避けながら、罹らない行動を徹底すれば「怖がりすぎたね」で早々に終着するだろう。

問題は、「Withコロナ」よりは「アフターコロナ」。今回の件で体験したこと、明確になったことがどう影響してくるか、そちらの方が大きな問題、その辺りを主体にいくつかコラム記事、ブログ記事が書かれてもいる。ただ、どれもこれも微妙にズレている、もしくは未来と言うには近いところを見過ぎ、大胆な想像はできていないように思える。

テレワークも、ビデオ通話も本質的な変化じゃない

出社する重要性、面と向かって対話する重要性、実店舗で購入する重要性もすぐ分かるだろう

オフィスいらないんじゃん、通勤いらないんじゃん、みたいな話には多分ならない。EC、通販が捗る、みたいな話にも多分ならない。それだけだと意外としんどいこと、難しいことなんて、既に多くの人が認識していることだろう。すでにリモートしていた人やノマドしていた人たちからすれば、「今更なん?」みたいなね。

揺らぎ方で大きいのは、観光業や飲食業のような店舗型、水物度合いの高い商売の方。インバウンドはガツンと減るだろうし、今後の働き方が多様化した場合、読めなさ加減はグッと高まる。

一方で、オフィスの分散、縮小も、もちろん進む。制度設計が難しくなるのは人事考課や、勤怠管理? 「働く」をどう評価するか、どう算定するか。ここも今後難易度がグッと上がるだろう。

テレビや映画の世界で起きつつある「立派なハコ不要かも」という反応も、地味に大きいかもしれない。コンテンツの配信方法、作り方、収益に関する問題も、徐々に大きなネタに変わっていく?

その一方で、中央と地方の格差、違いも大きくなっていく気がする。一連の対策、地方でのバラ付きも明らかになったし、地方への回帰が強まったとしても、生き方や暮らし方、地域ごとの問題は、そこに行かないと分からない。結局、全部同じ規格や考え方では通用しなくなる? 今までの地方創生もそこが壁だった可能性も高いけど、中央から地方への権限委譲強化、地域ごとの違いが出てくるような社会に変わっていく可能性は十分ある。

中央から地方への分散というよりは、生き方、働き方、暮らし方に関する多様化の加速といったところか。

産業的な話、経済的な未来予測を一旦棚に上げたとしても、今までの大量生産大量消費、規模の経済みたいな構え、立て付けは厳しくなってくるだろう。水物に頼り切った気合や雰囲気、根性論のマーケティングでは立ち行かない時代が訪れている、間近に迫っているというのは言えるのではないだろうか。

「今までのフィクション」を吹き飛ばす「いてつくはどう」

盲信していればよかった幻想が、少しずつ葬られていく?

働き方も暮らし方も、どんどん変化せざるを得なくなっていく。中国でなんとかやりくりしていた部分が吹き飛ぶだろうし、見せかけの権威で何とかして来た部分も、今の新聞テレビの無茶苦茶さや官僚のアレコレを眺めていると、何なんだっけ、と。

マスコミに作り上げられた社会的な立場、水物を上手く呼び込むことで経済的な力を得ていた人たちは、これからもその位置を守り続けることができるだろうか? 少なくとも、欧米での人権問題等を鑑みるに、社会進化論、段階進化説は机上の空論で確定しそうだし、今後の人事評価、考課絡みで人件費、労働力商品化の部分がガタつく可能性も出て来る。インチキができなくなって確かな資本主義、市場になる分には大歓迎なんだけれども、マスメディアやインチキな連中が今のままではフィクションが無効化した後は厳しさしか残らない。

つまり、戦後70余年、あるいは明治維新後の150余年積み重ねて来たフィクション、機構は終わっていく、葬り去られていくということ。一気に崩れるのか、今回が致命的なとどめになって、ゆっくり滅びていくのか、その辺りの違いはあっても、もう元に戻ることはないだろうし、戻そうと努力しても引き返せるポイントはとっくに過ぎたように思う。

今までの「偉い人」がそうじゃなくなるかもしれない。「正しいと思われていたこと」が、単に「社会にとって都合が良かったモノ」になるかもしれない。そうなった時、「何となく正しいと思っていたこと」や「偉い誰かが言っていたこと」に則って生きて来た人、自分で考えずに暮らして来た人には厳しい世の中がやって来る、かもしれない。

ちょろい資本主義、誰かの真似をしていれば上手くいった市場、みたいなものは早晩吹き飛んでいく。マスメディアや権威ある芸能人、文化人に頼っていた部分も無力になるかも。早めに厳しい現実、厳しい顧客と向き合う方が賢明かもしれない。

「日本語が読める人」を顧客にしよう

「話しても分からない人」はノーサンクス

今回の騒動でも明らかになっている、「分かり合えない人」。昨今だと、自粛警察とか言われる人たち? 少し前なら買い占めに走る人、「マスクなし」が見えない人とか。こういう人たちを顧客にしてしまう、関係を持ってしまうととてつもなく高いコストがつく。社会的にも迷惑にしかならない、というのも明らかになっている。

この手の「日本語が読めない人」は、とにかく相手にしない。ノイジーマイノリティにリソースを割かない、力を持たせない社会へ向かっていきたい。自立もしていないフリーライダー、依存しているのに自分勝手な人、妙な正義感を振りかざす人に、「それは無意味だよ」と分かってもらえるような社会デザインを考え、形に落とし込んでいきたい。

対話ができる社会、違いがあるから、分かり合う努力をしあえる社会、心地いい公共空間や精神をみんなで作る。「アフターコロナ」で考える1つ目のポイントは、大体その辺りかな。

長谷川 雄治

長谷川 雄治はせがわ ゆうじ

2013年から、仮面ライターを掲げて活動中。
物書き&Web制作、コンサルティングが本業だと思い込んでいる、ただの変な人。