最近考えたことを徒然と。202008 中旬ver 最近考えたことを徒然と。202008 中旬ver

この記事は約6分で読めます。

はじめに

近々、某所で行う某発表のための資料を割とギリギリまで考えながら作り込んでいると、どうしても入り切らないものの、一旦頭の外に出しておいた方が良さそうな余剰フレーズが出てきたので、光にして放出できない分、適当な言葉にして吐き出してみる。このところの乱読の末に出来上がりつつある澱のようなもののつもりで、読みやすさやら伝わりやすさやらはガン無視で書いていくので、あらかじめご了承ください。

春先にやるはずだった発表を捏ねくり回した

アウトプットするために追加でインプットしまくった

自分の中で数少ない新型コロナの影響がコレかな? 今年の3月に終わっているはずだった、仲間内の施政方針演説的な発表、学びに対する宣誓、取り組みの決済的な発表が、5ヶ月先延ばしになって近々実施される(予定)。延びたなら延びたで、その間の学びというか、思考の変化も発表に盛り込まないともったいないと思い、ギリギリまで追加のインプット、散歩という捏ねくりタイムも沢山やった。

今後やっていくこと、今まで考えてきたことのテーマとして、「文体」やら「文章表現」やら、そもそもの「文学とはなんぞや」あたりが気になったので、その辺りに関連しそうな書籍を買い込んだ。「分かりやすく伝える」という点で、「デザイン」や「絵画の見方」がらみの書籍も買うだけ買って積んでおいた。チラチラ目についたところで投資や決算絡みの書籍、上念氏の新刊文庫も読んでみた。

情報伝達、情報産業という観点から、シャノンの評伝っぽい書籍もざっと読んでみて、アイキャッチに設定した『翻訳の授業』(山本史郎著 朝日新書)で一旦区切り、インプットのタイムアウトということで思考を資料へ落とし込んだ。

一応クローズドの会で、その中での発表になるから資料の公開、何を打ち出すかは秘匿する。また、発表までにはまだ数日あるから資料、発表内容をブラッシュアップする可能性はあるものの、与えられた時間の都合上、追加は困難。せっかく色々読んで色々考えたのに、入り切らない項目、頭の中でグルグルしている言葉が沢山ある。個人のランダムな読み合わせの末に見出してしまった繋がり、線もあるだろうし、その辺りを徒然と言語化しよう。

文学、文字や遊びに拘った理由は相対化?

「人が作ったもの」を考えたかったのかも

まだまだ読んでない書籍が沢山あるし、読み込みが足りない独りよがりというか、不勉強すぎる答えだと思うけど、コンテンツというか文学、文化や遊びに拘る、そこを気にしまくるのは単純に「よりよい情報伝達」を考えたいからだけではなく、「人が作ったもの」として色んなものを相対的に見る、絶対的な重みを取り除きたかったから、かもしれない。

色んな枠組みを飛び越える、雄々しい鳥のように自由に空を飛び回るために、権威や現実的な大きさ、重さを一旦棚に上げ、ゆったり構えて脱力した状態で柔軟に前例に打ち克っていくには、同じ尺度で勝てる余地を見出す、小さな力で付け入る隙を作りたかった? そういう意味で、大きな組織も自分が身を置く社会や構造、イデオロギーもフィクションや遊びに置き換え、目の前にあると思っている風景、解釈も文学や「人が作ったもの」として一旦「カッコに入れる」ようにしたかったのかもしれない。

絶対的なもの、自然に根付いた不変的なものという認識を逸らす、剥がす。ホイジンガが『ホモ・ルーデンス』で掲げたように、色んなものを「遊び」として仮想のもの、絶対的なものではなく共同正犯的な相対的なものであると一括りにしてしまう。色んな文学、作品を「人が作ったもの」でひとまとめにする、様々な文学を「F+f」のような代数式に落とし込んでしまう。その上で、今から自分が作るもの、やろうとしていることもスタートが同じであるということ、何も引けを取るものではないという思い込みを持ちたかったのかもしれない。

ラカンやら記号論を持ち出すと、「本当に自分が作ったもの」かどうかは分からなくなるが、全ての文学、全てのアートは受け取る側の見立て、解釈も含めて間違いなく「人が作ったもの」または「人がやったこと」。人とは何か、情報を伝える、情緒を左右するとはどういうことか、それらが生み出すパワー、フィクションの力、言葉や精神が肉体、外界に及ぼす影響はどんなものかを地続きで考えたくて、そこに拘っているような気もする。

仮面ライターという屋号、あり方を掲げているから。あるいは自分は作家、物書きであるという認識を手放したくないから、すがりたいからという要素も影響大だが、「文学」や「(主に小説などの)作品」という道具で全てを等しく見ようとした、全てをそれで動かせないかと横着しつつあるのが、こういう拗らせ、ひねくれに繋がっているんだろう。今の時点ではそう思う。

マルクス、シャノンの次を捻り出したい?

情報伝達という点でも、シャノンの次、自分なりの答えを模索したい

世界を大きく動かした、歴史や社会を変えてきたという点で、言葉の力、書籍の力というのは決して小さくはない。近代というか、筆者個人の場合だと、マルクス、シャノンあたりの影響が非常に大きいように思う。

二人がそれぞれ記したこと、シャノンの論文や成し遂げたことが全て分かっているとはとても言えないんだけれども、これからの社会、経済や暮らしを考える上で、次の「こうだ」というのをなんとか示せないか、探れないか、打ち立てられないかが最近とても気になる。

数年前に「情報伝達のコト化」的なことを書いたりもしたけれど、そういう方向性というか、GoogleがOKとする方策が必ずも正しくはなさそう、みたいな話だったりとか。いわゆるITベンチャー、スタートアップ界隈、最近のメディア産業、コンテンツ業界に対してもどちらかというと否定的、水面下で好戦的な構えを取っていたりとか。

自分の能力のなさ、しっかりとした研究やら制作やらもしていないのに、ルサンチマンを募らせまくって一発逆転というか、大きなどんでん返しを狙いまくっているというか。そういう意味(?)で、シャノンの評伝の後に『翻訳の授業』へ辿り着いたのは個人的に非常に良かったような気もする。

今の仕事も、今後やることも、どうしても誰かの想いや考えを間に立って翻訳し、別の誰かに伝えるという要素は出てくる。その際に、どう伝えるのが正しいのか、どう翻訳するのが正しいのかは、常に引っかかる。シャノンが一所懸命組み立ててくれたのは、書かれたこと、明確になったことを正確に伝える、辺りまでだったけど、その上に展開されているメディア産業、GAFAに乗っかってるITベンチャー、スタートアップには、序文だけしっかり読んだ『WHO ARE YOU』(ベン・ホロウィッツ著 日経BP)の「創造とは優れたアイデアを実行することではなく、特異で過激で逆張りどころか最悪と思われるようなアイデアを追いかけること。」がぶっ刺さって、諸々正しいとは思えないしね。

どういうスタンスで取り組むべきか、どうあるべきか。どっちの方向で進むべきかは、なんとなく『翻訳の授業』で書かれていた内容が指針になる気がする。だからこそ、もっと文学的な素養、透き通った文体づくり、作家としての立身出世的なことも真面目に考えていかなきゃいけないとも思う。

とどのつまり、全て模索中

どうやって食っていくのか、どうやってブラッシュアップするか、模索が続く

結構な時間を使ってインプット、散歩も織り交ぜて思考のこねくり回しも続けているけど、結局「コレ」という芯の部分、明確に向かうべき方向、やるべきことが見えたとはとても言い難い。まだまだ、今まで書いてきたこと、アウトプットしてきたことの延長戦を探っていく、形にする方法を走りながら考える以外に道も手も存在しない。

何せ、前人未到、未来を切り開く、勝ち取ろうとしているのだから、手探りになるのは仕方ない。ただ、大分肚は決まってきたし、他の変な人たちに主導権を握らせるぐらいなら、身の丈オーバーだったとしても自分に与えられたもの、託されたものに答えるために、改めて「仮面ライター」に立ち返って、掴み所のない変な奴として全身全霊をかけて突き進んで行かなければという想いも強固になった。

今までよりももっと自由に、雄大に。内面的に大きく、面白い奴になる、それを示していく、受け取ってもらう。それをしっかりと試行錯誤していきたい。そのために色々、それっぽいことに取り組んで行こう。とりあえず、そんな感じに考えた2020年初秋でした、と。

長谷川 雄治

長谷川 雄治はせがわ ゆうじ

2013年から、仮面ライターを掲げて活動中。
物書き&Web制作、コンサルティングが本業だと思い込んでいる、ただの変な人。