何を残して、何を選ぶか。漱石の懊悩も模索の参考? 何を残して、何を選ぶか。漱石の懊悩も模索の参考?

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はじめに

物書き、文章修行の参考になればと積んでおいた北川扶生子氏の著書、『漱石文体見本帳』(勉誠出版)。時代の変化、日本語の変化、漱石自身の変化を「文体」や「文章」を絡めながら北川氏のガイドに沿って読み進めたら、思わぬ発見、気づきのようなものが形成されつつあるようなので、その辺りを少しでも残しておくために、自分用のメモ代わりに出力しておく。

文章、文体だけの本じゃなかった

「文体」に何が影響を与えるのか、幅広く風呂敷を広げてくれた

ページを開くまで、読み進めるまではもっとゴリゴリの文章本、文体に関する書籍だと思っていたけれど、もっと裾野の広い本だった。もちろん中心に据えられるのは夏目漱石の文章であり、そこに見られる文体ではあるものの、そこを軸に、あるいはその文体や変化の背後にあるものを考える、捉えるために、著者の北川氏は縦横無尽に言葉を連ねていく。

漱石が生きた時代とは、日本語、文章表現にとってどういう時代だったのか。小説、文学にとってどんな時代だったのか。夏目漱石個人の社会的な変遷、趣味嗜好や内面的な変化にまで、その推察は広がっていく。

そして、『漱石文体見本帳』と銘打ちながら、近しい時代の他の作家に対しても、(漱石というスコープも通して)洋の東西を問わず、また時代や表現スタイルの垣根、作品としてのジャンルも飛び越えて触れてくれている。そういう意味では、読む前に思っていた方向には踏み入らなかったものの、思わぬ方向に、物の見方、考え方を広げてくれたような気がする。

言文一致、漢詩、英文学の世界から新聞小説へ

修辞、技芸、知識、士大夫の世界から、写実、リアリズム、大衆、産業に?

明治維新、西洋列強との邂逅を経て、「漢語+片仮名」や候文、江戸戯作、御伽噺や和歌の世界から、和語+平仮名、「小説」に至る道筋がある。また、社会的にも、富国強兵、日清戦争、日露戦争の流れ、産業構造の変化、都市生活の変化という背景がある。これに加えて、夏目漱石自身は、漢籍、漢詩や落語、江戸文学に通暁しながらも英文学者になり、実際に留学して本場の文学に触れ、学者として、教育者として自由スタイルの散文、小説に向き合う立場へ変化していく。最終的には大学教員を辞め、新聞社へ入り、新聞小説という大衆向けの舞台で活躍する専業作家のような人物へと変わっていく。

英文学者になった当初は抱いていたであろう、英文学への憧れ、西洋文化への眼差しは、少なくとも19世紀頃の作品に対しては基本的に失望したらしく、本来やりたかった世界、向き合いたかった世界、在りたかった理想像から少しずつ離れていきながらも、日本語のため、日本の文学のために、日本らしい小説、文体を必死に探り、修辞と素朴な表現とのせめぎ合い、散文と韻文、自由と形式、江戸と近代との間で揺れ動きながらも軸を作ろうとした、規範を探ろうと格闘した姿も、北川氏の解説を通して見えてくる、気がする。

激動に次ぐ激動、公的な部分、社会的な部分、個人の私的な部分での大小様々な変化の波に晒されながら、「漱石」という号を立て、自分なりの屁理屈、偏屈を通そうとした。悩みながら、苦しみながらも自分のため、時代にために生きた背中、姿みたいなものも感じてしまった。実際の解説や詳細は、実際に本書を手に取って紐解いていただきたい。ここでは、一旦このぐらいで辞めておく。

現代は、どんな変化がある?

その変化に対して、自分はどんな棹を挿したい? どんな提案をしたいのだろう?

漱石の頃と比較して、昨今の変化で大きそうなのは、「メディアの違い」と「発信方法やチャンネルの多様性」あたりだろうか。『見本帳』で触れられているのは、江戸から明治、大正にかけての日本語の変化、社会の変化だけれども、今の時代だと「言葉」だけでなく、「写真、画像」に「映像、音」も加わっている。

伝え方だって、アナログな手段、印刷物という手法だけでなく、デジタルな手法、現実から乖離したバーチャルな手法、実在しないものを仮想的に提示する手法だって取れてしまう。送り手も作り手も制限がなくなる一方で、その手法、技法に関してはまだまだ玉石混交。プロアマが曖昧というか、「修辞」やら「写実」やらの間でもぐらついている。

ここにもう一つ、「フェイク」や一種のイデオロギーに基づいたアジテーション、プロパガンダめいたマーケティング、プロモーション、ブランディングというのも広がっている。これも、必ずしもビジネス的なプロ、それをやって良しと認められた専門家だけに限定されていない。

その割には、目の前の問題、現実的なコミュニケーションよりも、無理やり捻り出されたややこしい問題、解かなくてもいいようなややこしい課題のためのコミュニケーション、みたいなものに時間なりリソースなりを割かれているような気もしてくる。

フィクション、ノンフィクションを問わず、個人も法人も問わず、とことん他媒体、多様な手段、多チャンネルの時代にも関わらず、伝え方の問題、コミュニケーションの課題は、このうん十年何にも変わっていない、のでは? その辺りの引っかかり、気になる要素がこれからはっきり形を与えたいこと、提案として整理したいことの領域、な気もしてくる。

だからどういうことなの? と言われても、「だからこういうこと」という回答もまだまだ提示できるところまで至っていない。暗中模索、試行錯誤はまだまだ続くだろう。

夏目漱石のような偉人でも天才でもない

知識も才能も何一つないけど、自分なりに「コレ」という世界、答えに行き着いてみたい

多分、モノ書きとしての才能、小説家や作家としてのスキル、知識には乏しい。インプットも足りていないし、一つの表現を繰り返し見直して、ブラッシュアップする根気もない。商売として大衆に受けること、売れることを真面目に考えるのも向いていないし、何より、大衆は嫌いだ。

自分がやる必要もないだろうし、やったところで何もできない可能性のほうが高いし、自分じゃなくてもいいんだろうけど、なんとなく引っかかるところが見えてきてる気もするし、「それ」を捻り出せればスッキリするというか、自分なりに満足できるような気もする。

分かったようで分かっていないし、伝えられているようで何も伝わっていないだろうし、結局のところ、「掴みどころがない」ままでこの先も進むんだろう。それで色々大丈夫な訳はないんだけど、そのよく分からんことに熱をあげたくなるのも、よく分からん頑固さというか、自分なりの偏屈さなんだろう。まだまだ「言語明瞭、意味もわかるけど真意が分からん」を貫いて、「次の時代」を掴みたい。

長谷川 雄治

長谷川 雄治はせがわ ゆうじ

2013年から、仮面ライターを掲げて活動中。
物書き&Web制作、コンサルティングが本業だと思い込んでいる、ただの変な人。