「『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を観てきた:||」(ネタバレありver?) 「『シン・エヴァンゲリオン劇場版:||』を観てきた:||」(ネタバレありver?)

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はじめに

【ネタバレ注意】のサムネを使いながら、殆どネタバレしてない(はずの)感想をまとめてから、そろそろ一週間。ネタバレありで「個人的にはこう考えている」もまとめておかないとスッキリしない気もするので、『仕事の流儀』も見たし、自分なりの考えを改めて書いてみる。

※本編の内容に触れています

まだ観ていない方、これから劇場で観る予定の方はご注意ください!

と、一応初めてはみるものの、おそらく本作に関しては「ネタバレ」や「ストーリー自体の考察」は、あまり意味を持たない気がする。後者に関しては、テレビアニメ版の25、26話と同様に「コレはフィクション、お芝居です」というのを明確に打ちかましていたし、「裏宇宙」以降の展開からしても、細かい描写を追いかけること、整合性を取ろうと考察することがナンセンス、大した意味を持ちそうにない、というのを向こうから示している。

よって、マリの正体だの、補完計画やゲンドウの目的、冬月とユイの人物像等々は、庵野秀明的にはどうだっていい、受け取る側、二次創作する側が「好きにしろ」ってことなんだろうなぁ、と。

「ネタバレ」が意味をあまり持たない気がするのは、上記のような理由から、「謎解き」や「ストーリー展開の結末」が気になる人へ向けた物にはあまりなっていないから、だろうか。公式のスポットCMで「田植え」がネタバレとして盛り上がりのピークだったのも、「ネタバレ」系のコンテンツが求められていない、求めている層にインフルエンサーな受け取り手が少ない、ということだろうか。ネタバレのバリューが非常に低い。

もう一つは、本作が「完結」に重きが置かれていることも、「ネタバレ」が重視されない理由かな。前段の『Q』で思いっきり振り回してしまった(上に、今作も総監督自身もスタッフも振り回しまくった)のもあって、「ファンが望んだ決着」や「ファンが見たかったであろうシーン」が序盤から中盤にかけて詰め込まれていたように思える。『Q』から引きずっていた「引っかかること」にも一応答えが用意されていたし、今作で「(庵野の)エヴァが完結する」ってところが、最重要なポイント。だから、一部を切り取ってネタバレしたところで、インパクトとしては薄くなってしまう。

結局、劇場に行ってまで観たい人は、ネタバレがあろうがなかろうが観に行くし、それぐらい強度の強いファンは基本的にネタバレする意味がないことも分かっていて、その「ファンサ」にガツンとやられて、2時間34分も劇場で最後まで見るというのも相まって、「観に行く」こと自体がお別れの儀式、大事な行事になっている。

ある意味、観てきた人たちにとっても、「お話の中身」や「展開そのもの」はどうでも良かったのかもしれない。そういう意味合いでも、『Q』があることで完全な耐性がついてしまった、ような気がする。「『Q』はいらない子」みたいなのもチラホラ見るけど、『Q』であそこまでやったから、完結篇で色々入れるだけの意味もできたし、「『Q』までの話」も仕込むことができたし、『Q』がなきゃ『シン』にはなってないし、『Q』で更に観る側が訓練されたおかげで、『シン』ぐらいの振り幅では「終わること」に集中できた、ような気もする。だから、『Q』は必要。難解だというのは自分もよく分かる。

「庵野座」の「エヴァンゲリオン」はもう作られない

結局はテレビアニメ版25話、26話へ帰って行った

「エヴァンゲリオン」の物語としての決着がつきそうなところから、25、26話でも入っていた「お芝居でした」なシーン(の、どちらかというと舞台装置側)が入ってくる。書き割りの背景があり、円谷プロっぽい特撮用の屋内スタジオもあり、シンジが一人一人の共演者に「オールアップです」と花束を渡すような話も入れて、「お芝居でした」なところにも「終わり」をもたらしていく。

順番に舞台装置が分解され、大掛かりな美術品、セットが解体されて搬出されていく。段々小物が残っていって、それすらも最終的には全部返却、スタジオは原状回復してキャラクターは全員、あのスタジオを後にする。全部、シンジに送り出され、最後はシンジも両親に追い出される。

アレをやられてしまうと、「エヴァ」は完全に終わり、少なくとも庵野秀明総監督による大掛かりな映像作品としての「エヴァンゲリオン」は、もう二度と作られない。初号機のスーツは保管されても腐食が激しくてボロボロになって行ったり、弐号機やマリの乗機はどんどん改造されて「現存してません」になるし。次を作っていくために資材はバラされ、セットは解体され、演者は打ち上げを経て各々の世界へ帰っていく。

宇部新川での最後のシーン、マリとシンジ以外は、きっと東京へ帰って行って次の仕事に入るのだろう。そしてきっと、全員があそこに集うことは一生ない。祭りが終わった後のグダグダしてしまう空気感、打ち上げ終わりの帰りたくない感もあそこで醸し出されていて、それらも相まって物凄く哀しい気持ちが込み上げてくるよね。

最後の2時間34分、それなりに長かったはずなのに『One Last Kiss』が聞こえてくると「え、もう終わっちゃう? お別れなん?」がブワッとこみ上げてきて、「もう二度と会えない」気持ちというか、「共に過ごした日々が去っていく」悲しさみたいなものも相まって、とてつもない喪失感があったのは今も何となく覚えてるな……。

何でマリだったのか

マリアだったこととかは、他の解説、考察ブログに任せる

ここで言及できそうなのは、マリは、安野モヨコ+宇多田ヒカルじゃないか、ぐらい。新劇場版でも『序』からは登場せず、『破』から物語へパラシュートで乱入してくるところから行くと、テレビアニメ版や旧劇の時にはなかった要素、エヴァを立ち上げた時には想定していなかった「外部からの異物」で結末に影響するような要素となると、まずは安野モヨコだろう。

安野モヨコを「自分より一歩先を行っている女性クリエイター」と見立てるなら、「宇多田ヒカル」も重なってくる。ゲンドウもシンジも、というか全ての登場人物、要素も結局は庵野秀明の一部なんだけど、ゲンドウが「かつての庵野秀明」ならユイは「かつての庵野秀明を支えた何か」で、シンジは「ゲンドウとは違う、何かを得た庵野秀明」で、クリエイターとして一皮向けた庵野秀明とともに現実の世界へ踏み出していくのは、やはり「(庵野秀明より)先の領域にたどり着いている女性クリエイター」だろうから、マリはモヨコ+ヒカルなんだろう。

他のキャラクターではダメだったのか?

友達の妹、鈴原サクラを選ぶ甲斐性は、シンジにはない

綾波はどこまで行っても舞台装置というか、スポンサーサイド、視聴者にとって都合の良いお人形さん、一種のデウス・エクス・マキナであって、物語の外まで連れて行けるようなキャラじゃない。アスカも、式波の方は綾波と同じだろう。最後のアスカは、式波じゃなくて、惣流の方のアスカだろうな。大人、パパを求めていたアスカはああいう決着になった、と。

『One Last Kiss』で思い出すのは「大人のキスをしよう」と言ってたミサトさん。旧劇と違うのは、中二が欲情する対象の「年上のお姉さん」ではなくなったこと。完全に「母」となってしまったミサトさんも、成長したシンジとともに次の世界を生きていく候補にはならないだろう。

シンジのキャラクター的には、友達の妹と連れ合いになる路線は考えにくい。よって、マリの方のきっかけが希薄すぎる気もするけど、旧劇からのキャストに混ざってフィクションの世界に留まり続ける「あっちの路線」を利用したくても拒絶されてしまいそうだし、どうしてもあの二人でエヴァの外へ出ていくしかない。

マリ=島本和彦説もあるようだけど、「かつての庵野秀明」と共にいた冬月コウゾウの方がしっくり来るかな。庵野秀明を導いたクリエイターの先人たちと混ぜ合わさって、ああなってる気がする。

「エヴァに乗る」は、創作活動の隠喩?

完全なアマチュアだった庵野 vs 食っていく肚を決めた庵野

ゲンドウを「かつての庵野」、シンジを「今の庵野」と見立てたら、「エヴァ」が壮大なアマチュアリズムにも見えてくる。仲間と同人活動を一所懸命やってた「かつての庵野」と、自分が代表を務める法人の代表をやりながら、幅広くいろんな作品を商業的に成功させている「今の庵野」。その違いは「食えるか否か」とその辺りに対するクリエイターとしての覚悟というか、社会人としての誠実さと必死さ、商売っけみたいなもんだろうか。

SF研とか漫研みたいなサークルで、ただひたすら自分たちの楽しみのために、自分たちが面白いと思うものを追求していく。それが誰に評価されるとか、売れるか否かなんて関係なく、兎にも角にも独りよがりでもいいから楽しくやっていた頃の感動や興奮が、ゲンドウが「もう一度会いたい」と願ったユイ。その時の経験や喜びはきちんとシンジやエヴァの中にも込められていて、「最初からそこにいたんだ」となるし、「独り善がりな自分」にサヨナラするために、「神なんていらない。意思の槍があればいい」と「あの時の愉しさ」に包んでもらって葬り去る。

『シン』はそういう、庵野秀明の個人的な儀式もちゃんと見守ってあげる、そんな映画だったんじゃない?

「エヴァに乗れ」るのは、身も心も厨二な人だけ?

アマチュア一辺倒を脱したら、エヴァに乗らなくても創作ができるのか

使徒のATフィールド、強烈な拒絶は、既に作家として食える人たちに向けた、強烈なアンチだったり、「俺はこれが絶対に面白いと思う」という主張だったり? 純粋無垢で童心めいた創作意欲が使徒で、それに「食うための商品化」だったり、「商業作家として認められた地位」だったり、「世間的に評価された作品」というレッテルなんかを乗っけたのがエヴァ?

ネルフはテレビアニメ版の頃の製作体制だったり、学生時代のサークルなんかの隠喩で、ゼーレは旧劇まではアニメ版の製作委員会なりスポンサーで、新劇場版の場合は庵野さんの会社へ出資してる人たち、事業計画を承認した人たちの隠喩なんだろうね。『序』と『破』で必要な資金を稼いだから、『Q』では役割を終えた、と。

クリエイターとしていかに食っていくか、商業作家として生きていく厳しさ、その上で、作品作りとしてはアマチュアリズムの極地を目指す。そういうスタイルが、SF大会的なサブカルの世界、コミケ的な二次創作の世界と非常に親和性が高くて、「オリジナルにはなれない」世代からの共感なんかも密かにあったんじゃないだろうか。

ゲンドウがシンジに「エヴァに乗れ」というのは、創作に勤しめという意味合いにも思えるし、何らかの表現活動をする人は目立つし、何か成し遂げたら批判の的にもなるし、使徒と戦うのはやっぱり怖いし。インフィニティのなり損ないでも動き続けるのは、自分のようなクリエイターだけでは食っていけない人たちの執念、を現しているような気もしてくる。

書物だけじゃなくて、広い世界に出ていこう

アマチュアリズムの極地もやりつつ、自分の外で物作りせよ?

エヴァンゲリオンに限らず、様々なメガヒットを飛ばしている庵野秀明総監督だけれども、作ったら見ないで次を作る辺り、クリエイターとしてはとことんアマチュア、作るのが楽しいのであって、売れるかどうかは経営者としては興味や不安があったとしても、とにかく次を用意しなきゃとなるんだろう。

『シン』の作り方を見たって、どこまで行っても創作自体はアマチュアリズムの究極系。「自分たちが面白いもの」をとことん追求する。そこに緩みやたるみ、言い訳が介入する余地はない。「自分がやるって言ったんだからやれ」って世界。ハードルが高くて挑戦する楽しさもある反面、めちゃくちゃシビアでひりつくやり方。

商業的、市場主義的な物差し、価値観はほとんどなくて、「面白さ」を本気でぶつけ合って、自分の限界値、想像可能な領域の外側を掴み取ろうとしている。そんな姿も、『仕事の流儀』で見せてもらうことができた。でも、あれはやっぱり仕事じゃなくて趣味や遊びの延長線上だろうから、『仕事の流儀』やら『プロフェッショナル』やらで取り上げるのは、そもそも間違い。エヴァが一種の学芸祭、お祭りの出し物であると見抜けなかった辺り、NHKもまだまだだな。

宮崎駿や富野由悠季といった上の世代がいて、前者はアート寄りだけれども商業的なポイントを多少は掴んでいるし、後者は後者でスポンサーの顔も立てながらきっちり仕事するし。その上の世代には、トキワ荘的な方々がいて、更にその先輩という流れも当然ある。そんな人たちを目の当たりにしながら、「自分たちが面白いと思うもの」をどれだけやっても「神の二番煎じ」にはなってしまう。その「神はいらない」と言いたくても、自分が次の神に祭り上げられる。

そんな庵野もすっかり60歳。次に続く世代がきちんとオリジナリティを追求できるのか、そもそも映画業界、アニメ業界、特撮業界が元気を取り戻せるのか、今後も続くのかも心配していそうなメッセージも込められているような気がする。結局は、富野ガンダムな「外へ出ろ、外と交われ」だったのは面白い。

創作活動を通じて、自分たちが面白いと思うことをやり続ける、自分たちが面白いと思うものを追求し続けたいなら、やり方は大きく変えすぎず、自分の外に働きかける。書物でもいいし、創作仲間でもいいから、交流する、やりとりする。それがヒントなんだってのを、アマチュアの偉大なる狂人として示してくれた。それが、この『シン・エヴァンゲリオン』、そして例の『仕事の流儀』なんじゃないかと今は思う。

作品の外はプロ、作品の中はアマチュア。その両立を改めて目指さねば。

長谷川 雄治

長谷川 雄治はせがわ ゆうじ

2013年から、仮面ライターを掲げて活動中。
物書き&Web制作、コンサルティングが本業だと思い込んでいる、ただの変な人。