『情報の文明学』を読んでみて 『情報の文明学』を読んでみて

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著者梅棹忠夫
出版中公叢書

精神産業、外胚葉産業の時代からさらに外へ

インターネットやソーシャルネットワークが当たり前になる前の時代に書かれた著書。
中心になるのは、「放送」について。

政治経済に繋がる、何を伝えて何を伝えざるかという教育のベースにもなりうる情報。
それをコントロールする、実業に対する虚業に思える情報産業が勃興したということについての書籍。

今日では、情報産業といえばずばりITやWebといったことになりそうだけれども、さらにその前段というからやや古い印象はあるものの、食べるための農業、手足を使う工業ときて、頭や精神に関わる情報産業という視点は面白いと感じる。

そして、少し前の時代の情報産業というのは、物や電波といった物質や物質に準ずる媒体の上に乗って展開されていたが、現代ではその媒体すら単純な「モノ」からどんどんかけ離れていっている印象がある。

著者は、産業の発展を身体の内側に留めていたが、インターネットやソーシャルネットワーク、ソーシャルメディアが発達している今、もしかしたらその産業のコアはすでに、身体の外に出てしまったのではないか、というのが個人的な発想。

コミュニケーション、そして文化の産業

放送が勃興した時点から、すでに半世紀。インターネットが本格的に広がり始めて、そろそろ四半世紀。
かつては知識そのものや、放送や既存のメディアに代わるものとしてのインターネット、Webがあり、ITは実業を支えていた物理やアルゴリズムを支えるものになっていて、既存の産業に組み込まれていった感がある。
ましてや、モノのインターネット、IoTという時代が来るとなるといよいよ物質を扱う実業と情報を扱う虚業を組み合わせた、複素数的な産業も当たり前になりつつある中、そういった概念だけでは説明がつかない領域も、生まれているように思える。

それが、「コミュニケーション」や「文化」という部分じゃないかと個人的には考えている。

自分たちの体の中から飛び出して、最初から外にある誰かとの間で行われる行為や、外にある何かで行う行為が、現在の情報産業から生まれつつあるように思える。

新しい媒介は人。情報が増えるのは当たり前

インターネットやソーシャルメディアが当たり前になる前に比べると、爆発的に情報が増えているということだが、人が作り出すコミュニケーションや文化的な行為が産業になりつつあるのなら、それほどおかしな話ではないように思える。

そして情報の多くは既存のマスメディアやインターネットからだけではなく、知人からの口コミや所属するコミュニティからもたらされることも増えてきている。

今、熱が集まり始めているのはそういった領域のような気がしている。

そして、そういったコミュニケーションや文化、遊びといったところは、まさに現生人類が身につけた最も新しい自然選択でもある。身体性を伴うようでいて、完全に外にありながらも、「心」という「脳」とは別にある自分の中心に働きかけるような産業が、今自分が関わっている領域なんじゃないだろうか、というのが本書を読んで出てきた個人的な見解。

情報そのものに対しての価値よりも、情報をやり取りする部分に対しての価値。
今までもなんとなくそうやってきたような部分を、はっきりとラベルをつけて見られるようになった感覚がある。

コミュニケーションや文化といった部分に、もっともっと注力していけるように見せ方も変えていきたいと思う。

長谷川 雄治

長谷川 雄治はせがわ ゆうじ

2013年から、仮面ライターを掲げて活動中。
物書き&Web制作、コンサルティングが本業だと思い込んでいる、ただの変な人。