『世界の辺境とハードボイルド室町時代』を読んでみた

2016.10.18

世界の辺境と、中世日本の意外な実情と。義経や信長、あるいはその他の偉人や文化の出来上がってきた経緯を踏まえてみると、案外自分の位置付けは面白いのかも、というのをダラダラと書いてみました。

この記事は 約 3 分で読めます。

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著者高野秀行
清水克行
版元集英社インターナショナル

2015年8月が初版の対談本。「世界の辺境と、室町時代の日本って似てるよね」的なところから始まった対談を書籍にまとめた一冊? そこから感じ取ったこと、拾い上げたことを以下、つらつらと書いてみる。

新しいことをやるなら、辺境の方が都合がいい?

平安時代や室町時代の日本も、中世のアメリカも。当時の文明の中心からは比較的距離がある「辺境」。権力の中心や経済の中心、文化の中心からは付かず離れずの距離にいた方が、独自の文化や新しいことというのはやりやすいらしい。

力のある人や、権威が近くに良すぎると潰されてしまうし、そういう「逆らえない力」みたいなものが全くないというのも、工夫して掻い潜ろうという気概もイノベーションも起こらないらしい。両方が、ちょうどいい場所で、ほどほどに弱い存在だと、全く新しいことを遠慮なく推し進められる。そういう部分は、洋の東西どころか時代も問わない法則らしい。

異端児はいつでも破壊者で独裁的

源義経はすごいヒーローみたいなイメージをもっているけれど、当時の人からすればとんでもない無作法者で、そういう異端児ぶりが兄の頼朝の鼻についてしまった、という一面もあったらしい。また、あまりにも田舎者すぎて洗練された振る舞いができないまま権力の中枢に近寄るというのは、頼朝も織田信長も避けていたらしい。

「自分がルールだ」という美学や基準は持っていたらしい信長でも、「うつけ者」と言われるほど無作法な人間ではなかったようで、上洛する際は下々の兵にまでかなり気を配っていたというのも、面白い話。

エポックメイキングめいたことをしたり、合理性に基づいた行動を取っていても、あまりにも前例からかけ離れたことをやってしまうと、結果を出していても後からつまみ出されてしまう、というのも日本的なムラ社会では気をつけておいた方がいいのかもしれない。

また、上流階級のマナーや常識という者もきちんと身につけておかないと、「一廉の人間」になるのは難しいというのも、改めて覚えておきたいところ。

頭が良すぎない方が、新しいことに取り組みやすい?

頭が良すぎてしまうと、先が読めすぎてしまって最初から諦めることもあるようだ。頭が悪すぎると、そもそも何をやるべきかがわからなかったりもするけれど、先が見えすぎてしまうと行動を取らなくなってしまうというのも、いいことではない。この辺りも、「ほどほど」の方がが新しいことをやるには好都合なのかもしれない。

また、頭がいい人たちはどうしてもど真ん中の真理を早々に見極めてしまうため、フィールドワークをあまりやらないような傾向もあるらしい。後発組の、頭の出来がほどほどの我々には「博物学」スタイルで、「あんなのもある、こんなのもある」と複雑な現場を見て学んでいった方がいいように思える。

とどのつまり、今のポジションはマイナス材料ではない

自分が大阪(=辺境?)にいるのも、自分が大して注目されすぎていないのも、頭が良すぎないというのも、世の中に新しいことを届けるには決してマイナスの材料にはならない。また、どうしても「破壊者」とみなされてしまうというのも考慮に入れて、今後の行動スタイルもしっかり考えていきたいところ。

執筆者プロフィール

長谷川雄治(はせがわ・ゆうじ)

物書きな作れるWebコンサルタント。
HTML/CSSのマークアップやWordPressのカスタマイズ案件を経験し、サービス構築やブランディング、サイト設計や戦略プランニング、各種原稿、書類作成まで担う。
独自色の強いコンテンツマーケティングの人という立ち位置も見出だしつつあり、不足しているものを補うべく、日々実践中。

2016.10.18

2018.04.30

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