文章修行 徒然(1)

2017.01.05

読んだり書いたりしながら、考えたり感じたりしたことを思うままに書いてみる第1段。

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最近、自分の筆力を上げようと読んだり書いたりしているけれども、なんとなく見えてきたことが一つある。それは、「自分を磨く」に尽きるということ。

料理と同じように、「書く」ことにもいくつかの層がある。ベースになる水があり、旨味の元になる出汁があり、具材があり、味付けがあり、鼻や目に対する部分もある。表のわかりやすい部分、プロットや起承転結の巧稚はどちらかというと後半、個人的に気にかけている文体というのは、恐らく出汁の部分。

どこに力をかけて、どこを味わってもらおうとするかは書き手の数だけあるだろうし、受け手の数だけ好みがあって、選択の自由がある。それでも、水が不味ければ(あるいは硬度や鮮度の組み合わせ、選び方に気が行き届いていなければ)、その上にどんな努力をしようとも無駄なんだろうな、というのが分かってきた気がする。

出汁が文体なら、水は何か。水を作り出すのは、海であり、山であり、大地であり、地球全体である。そうするなら、「書く」場合の水を生み出すのは、身体も心も頭も含めた自分自身全体。この「自分」がしっかり磨けていなければ、そこから滲み出てくる「水」も、その「水」に出汁となる文体を溶かしてみても、いい文章には繋がらない気がする。

書店や図書館で、純粋に小説を楽しもうと有名無名の作家の書籍を手に取ってみても、ストーリーテリングに良い悪いを感じることもあれば、文体や行間の隙間みたいなところから見える書き手の人柄や考え方が肌に合う・合わないを感じることもある。触れているのは絶対的に言葉であって文章なのだけれども、ノンバーバルな部分のフィーリングを気にかけてしまう。

SNSもCMSも広まって「書く」ことのハードルは下がり続け、根気さえあれば「誰にでもできる」時代。ただし、読み手としては、目に触れがちな文章のノンバーバルな部分の貧弱さや衰退具合が気になってしまう。だからこそ、書き手としてもできうるかぎりその辺りに気にかけ、「水」の部分と「出汁」の部分とを丁寧に追究して、しっかりとしたものをお届けしたいとも想う。

しかしながら、そうなると一生勉強、一生修行ということになる。作家という道を選ぶ以上、避けては通れない命題ではあるものの、終わりのない課題に向き合わねばならないというのは、非常に憂鬱であり、過酷な人生を選んだもんだという想いもなくはない。

とはいえ、竹取物語や源氏物語の時代から、あるいは書き言葉と話し言葉とが近付いた「言文一致」の明治、大正の時代から続く日本の文学、文芸を未来へも送り届けるためには、表層だけを撫でて分かったつもりで文章を書くよりはいくらもマシな取り組みだろうか。

文学部でもなく、文芸部でもなく、アマチュアの箸棒レベルの身で抱く野望や理想ではないのだろうけれども、「そういうことを俺はやってるんだぜ」と思えば、終わりの見えない課題にも取り組めるような気がしてくる。

水の部分に限らず、味付けの部分や具材の選び方の部分すら未熟で、偉そうなことを言えるほどの実力は身についていないし、こだわりを発揮するにはもっと手軽な部分から取り組めば良いのだろうけど、筆力を上げていい文章を書くためにも、自分を磨こうと決めてみる。
おいしい空気、おいしい水を届けるように、おいしい言葉、おいしい文章を心に届けられるように、これからも修行あるのみです。

執筆者プロフィール

長谷川雄治(はせがわ・ゆうじ)

物書きな作れるWebコンサルタント。
HTML/CSSのマークアップやWordPressのカスタマイズ案件を経験し、サービス構築やブランディング、サイト設計や戦略プランニング、各種原稿、書類作成まで担う。
独自色の強いコンテンツマーケティングの人という立ち位置も見出だしつつあり、不足しているものを補うべく、日々実践中。

2017.01.05

2017.01.06

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