文章修行 徒然(2)

2017.01.10

読んだり書いたりしながら、考えたり感じたりしたことを思うままに書いてみる第2段。

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梶井基次郎の『檸檬』、島本理生の『ナラタージュ』、石田衣良の『娼年』、川端康成の『伊豆の踊子』、太宰治の『人間失格』。年代も長さもそれぞれの小説をだだだっと読んでみる。江國香織や田辺聖子、辻仁成、川上未映子、村上春樹も年末年始にかけて読んでみた。

辻仁成の言葉の選び方は何となく合わず、田辺聖子の文体も鼻につき、島本理生の文章はひっつかかりがなさすぎて詰まらなかったり、石田衣良は短編の方が好みだったり。梶井基次郎の濃さと島本理生や石田衣良の口当たりの軽さは、同じ日本語、同じ小説といえどかなり広がりがあることを感じさせてくれる。

「小説」という部分で区切っても多様なのに、「書く」や「言葉を選ぶ」といったレベルにまで行くと、この多様性は爆発的に広がる。人の数だけ広がりがあり、その人が合わせる型の数だけまた分岐する。もはや、無限と言ってもいい。

なぜここまで多様性があるのか。ふと疑問に思いこそすれ、「言葉」もしくは「情報」が精神的な「水」や「食糧」に類する物なら、それぐらいの広がりはあってしかるべきだとも思う。水分補給も栄養摂取も、土地や文化、家庭のレベルで迷うぐらいの選択肢がある。その選択が一つの楽しみというのなら、「文章」や「物語(あるいは小説)」にも、膨大な選択肢があった方が楽しいということにもなる?

そして、一つの同じ物を切り取ったとしても、スタイルによって大衆向けか玄人や数寄向けかが分かれてしまう。

「美しい文章」は多数の人には心地いい口当たりだったとしても、人によっては「毒にも薬にもならない」と思われる。あまりに俗な文章では、茶道ではなくペットボトルのお茶を飲むような情報取得になる。どちらがいい悪いではなく、どちらを選ぶのか、どちらを見せるのか、どのスタイルを選ぶのか。そしてそれを透徹できるのかという問題になるようだ。

自分自身のことも振り返ってみれば、どちらかというと万人受けはしない、多少のスモーキーさと毒っ気を含んだ文体になりがちだろう。そうであるならばいっそ、超高級路線で茶道的に一流派を築く高みまで昇りつめればいいのに、中途半端にプラプラしている。

「ケーキの美味しい紅茶屋さん」で行くのか、「こだわりのブレンド」で行くのか、あるいは「斬新なフレーバーが美味しい」のか。「とりあえず安くて早い」のか。「見た目が可愛くて甘すぎるケーキ」を出してみるのか。今の部分を抜けられれば次が見えるだろうに、現状脱出に必要な負荷をかけきらず、今に至っている。

振り返れば、小説のような物を書き始めてそろそろ15年。仮面ライターのハンドルネームを名乗って10年。いい加減、次を目指してもいい頃合いだし、そろそろ何かしらの証を手に入れてもいい気がする。グズグズと同じところでウロウロせず、大事に溜め込んだ毒液を少しずつ混ぜ込んで、世に送り出すようなことをしていかなくてはならない気もする。

中途半端な悪食、毒っ気のある変態性を見せずに上っ面で綺麗な文章を書こうとするのが間違いだから、逆を行くのならどうするか。答えは自ずと手の中に……。

執筆者プロフィール

長谷川雄治(はせがわ・ゆうじ)

物書きな作れるWebコンサルタント。
HTML/CSSのマークアップやWordPressのカスタマイズ案件を経験し、サービス構築やブランディング、サイト設計や戦略プランニング、各種原稿、書類作成まで担う。
独自色の強いコンテンツマーケティングの人という立ち位置も見出だしつつあり、不足しているものを補うべく、日々実践中。

2017.01.10

2017.01.10

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