言語化と境界線と多様性。不完全だから愛おしい

2017.05.13

なぜ言語化するのか。なぜアウトプットするのかを考えていったら、奇妙な展開が見えてきた。着地点を見定めず、思いつくまま広げてみよう。不完全だから、前に進める。矛盾こそ力強さだという着地が決まるかな?

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何も書いていない紙を想像してみる

コピー用紙でもいい。画用紙でもいい。ノートでもいい。罫線やグリッドのない紙は、白もしくは紙そのものの色一色だろう。何もない。文字を書かなければ、あるいは線を引いたり色を塗ったりしなければずーっとそのままだ。もちろん、永遠にそのままなんていうことはあり得ない。日に当たれば変色するし、時間が経てば劣化していく。

丸っきり何もない暗闇、あるいは真空を考えてみてもいい。こっちは多分劣化しない。完成された、完全な無。「黒」が広がっていると言っていいのかすら判断に困るけれども、何もしなければ黒のまま。何も変わらない。動かない。

完全な白の世界、あるいは完全に黒しかない世界で何がダメだったんだろう? なぜ、白の世界に黒を、あるいは黒の世界に白を引かなきゃいけなかったのだろう? その答えは考える人の数だけあるだろうから、個人的な考えを述べる。僕の答えは、「境目、境界線を生み出すため」だ。

どちらか一方しかない世界に、別のものを置く。交わってグレーになることもあるだろうけど、混じり合う限界もあるかもしれない。そうすると、やっぱり境目、境界線ができる。境界線ができると、その輪郭に沿って想像力が働く、ような気がする。何もないものを見つめていても想像力は働くし、その方がより自由で柔軟な広がりを見せるのだろうけど、境界線が生まれれば、境界線に沿ったある特定の方向性を持った想像力が働くような気がするのだ。

この「境界線」、「こっちとあっち」が生まれると、平面的な広がりも、空間的な広がりも生まれる。線の引き方で境目の形はいくらでも変わりうる。境界線が増えれば増えるほど、とてつもない多様性が生まれていく。境界線は必ずしも直線とは限らない。曲線があり、交点が生まれ、白だけの世界に黒い形が、あるいは逆の形が浮かび上がってくる。当然、境界線に刺激される想像力も、その近くに付随する。形の数だけ、あるいは形を受け取る人の数だけその想像される世界も増えて行く。

この多様性、それから境界線に沿った想像力が、言語化する、あるいはアウトプットするための大きな理由じゃないだろうか。そんな風に、勝手に考えてみる。

境界線ができると、「その先が気になる」

例えば、「禁止事項」が定められると、それをやってみたくなるという経験はないだろうか。あるいは、「なんでダメなんだろうか」と考えてみた経験はないだろうか。「未成年は飲酒禁止」と言われると、むしろ飲んでみたくなったり。「人を殺してはいけません」と定められると、普段はそんなことを考えもしないのに「なぜだろう」と考えてしまったり。「ダメだ」という境界線を引かれなければ、そもそも気にしなかったかもしれないのに、境界線があるから気になってしまう。

「チラリズム」というのも、「境界線」と「気になる」の組み合わせなんじゃないだろうか。露骨に見せられても興奮しない。また、みたかったはずの実物が見えてしまっても面白くない。「見えそうで見えない」状態で想像力を働かせるから、脳は強烈な刺激を受けて興奮する。頭の中で想像したものの方がインパクトが強く、実物の方がインパクトが薄くなってしまったり。事前の期待は高かったのに、実際に体験してみればがっかり、というのも「想像力」(=思い込み)がいかに影響力が大きいかという話である。

ただただ境界線を引けばいいというものでもなく、どこに境目を作るかが腕の見せ所でもある。そこから先の想像力を働かせて欲しいところに、線を引く。意図しないところに境目を作ってみても、受け手は想像力を働かせてはくれない。何を見せて、何を隠すか。ある意味、駆け引きというか人間力の試されるところな気もする。

「分かったところ」と「そうでないところ」の境目を作るためにアウトプットする

どこまでが黒で、どこからが白なのかをハッキリさせるのが、言語化あるいはアウトプットの大事な役割じゃないだろうか。もちろん、順序立てて考えるために紙に記録するという側面もあるが、それもどこが分かっていないのか、考えが及んでいないのかを明らかにする行為に他ならない。

真っ暗な暗闇に光を向けるように、見えているところと見えていないところの境目を作ってあげる。そうすると、そこから先の形も想像しやすくなるというもの。既知と未知とがくっきりすれば、何を知らなければいけないか、どんな材料が足りていないかも段々見えて来る。「分かっていること」と「分かっていないこと」の二つが存在するから、その先の「未知」を考えることができる。つまり、不完全だからこそ、新しいものが生み出せるのだ。

不完全も白黒の形も千差万別

個人の得手不得手、あるいは強みや弱み。知っていることや知らないことなど。その人の白に割合、黒の割合、あるいはそれぞれの形というのは本当に様々だろう。完全に同じ人もいるかもしれないが、同じにしようとする理由もない。非対称でいい、それぞれの形でいいと判断したから、今の宇宙があり、今の社会が成り立っている。

「違うこと」を宇宙は求めた。だから、白一色の世界でもなく、黒一色の世界でもなく、不完全で時に矛盾や対立も含む世界を用意したんだと考えてしまう。自分がいて、相手がいて。また違う相手がいて。それぞれ違うからこそ新しいものを生み出していける。違うということ、個性というものは本当に愛おしいものである。

この、個性の違いを認め合い、受け入れる。そうすると、手と手を取り合った二人の模様がまた複雑な境界線を作ってくれる。知らないことがまた明らかになり、その先の世界を想像して、創造できるようになる。新しいものはどんどん生み出していける。それがまた、面白いじゃないか。

不完全さ、境界線はエネルギーの源

一人の人間でも、矛盾する要素が内在しているだろう。正しさ一辺倒でもないだろうし、理系や文系で完全に二分することも難しい。男性性や女性性、あるいは父性や母性、感性や理性だけでどちらか一方は完全に保有していない、という人間も少ないのでは?

右があって左があって、向かい合う要素の両方があって自分だろうに、そういう矛盾に悩むこともある。分かりにくい人間だと。でも、その分かりにくさ、矛盾している要素が自分の中に境界線を引いてくれる。不完全な部分を教えてくれる。そうすると、そこから成長していく要素が見えて来る。もし、矛盾する要素がなく、完全な状態であれば変わることも、成長することもありえなくある。

完全に切り分けられない。それが、生きているということ。生きているから変わっていける。矛盾を抱える。矛盾は生きるためのエネルギーだ。だから、矛盾していていい。二元論で完全にカテゴライズできなくてもいい。その複雑な模様を知るために、言語化をはじめとするアウトプットをする。あるいは、他者と交わって自分の形を認識していく。

自分の不完全さを、相手の不完全さを寛容な精神で受け入れよう。認めよう。それが愛であり、革新の第一歩じゃなかろうか。不完全だから、変わっていける。新しいものを生み出せる。死んでしまえば、矛盾もなくなる。悩むこともなくなる。死という完成を迎えてしまう。不完全でいられるのは、生きている間だけ。矛盾していられるのも、新しいものを生み出せるのも、どうでもいいことに悩めるのも、生きているからこそ。生きている間だからできることを、楽しみたいものである。

執筆者プロフィール

長谷川雄治(はせがわ・ゆうじ)

物書きな作れるWebコンサルタント。
HTML/CSSのマークアップやWordPressのカスタマイズ案件を経験し、サービス構築やブランディング、サイト設計や戦略プランニング、各種原稿、書類作成まで担う。
独自色の強いコンテンツマーケティングの人という立ち位置も見出だしつつあり、不足しているものを補うべく、日々実践中。

2017.05.13

2017.05.13

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